「誰と」ともに生きるのか
「ともに生きる」。「ともに」って、一体誰を指しているんだろう。
家族や恋人、友人、学校のクラスメイトや職場の同僚、日常の中での人間関係を思い出してみる。日常的な人間関係の中で価値観が合わないと感じる瞬間はたくさんある。しかし、価値観の違う他者のことも尊重しなければいけない。これが難しい。時には誰かを守るために、他の誰かを悪く言わなければいけない時もある。複数の価値観や利害が衝突するような、そういう困難な状況に僕らは置かれている。
「ともに」の範囲を広げてみよう。毎日すれ違う名前も知らない人々、はたまた、遠い異国にいる一生出会うことがないであろう人々。これら無数の人々は直接関わりがなくてもどこかで私達の生活を支えている。電力会社で働く人々のおかげで、僕らは夜も明るい部屋で過ごすことができるし、ブラジルのコーヒー農家のおかげで、毎朝おいしいコーヒーを飲むことができる。しかし、コーヒー農家さんが妥当な額の報酬を受け取れるようにするために、フェアトレードコーヒーを買う人は少ない。顔の見えない他者を尊重しようとすることはとても難しい。
そしてこの世界に住んでいるのは人間だけではない。地球に住む無数の動物や植物のことも考えなければいけないかもしれない。しかし僕たちの横暴のために、地球環境は悲鳴をあげている。地球環境を守ろうとすれば、僕らは一体どれだけのことを我慢しなければいけないのだろう。
個人的なことに目を向ければ、家庭、友人、職場や学校の人間関係。社会的なことに目を向ければ、経済格差、差別、環境問題。「ともに生きる」他者を想像したとき、「ともに」の範囲は際限なく広がっていく。
しかし、この膨大な数の他者を、全て尊重することは可能なのだろうか。
それは多分できないことなのだと思う。誰かを尊重しようとした時、そのためにないがしろにしなければいけない別の誰かがいる。だから必ずどこかで境界をひかなければいけない。誰を尊重し、誰を尊重しないのかについての。誰と友達付き合いをし、誰と恋人となり、誰と一緒に働くのか。何を大切にし、何を大切にしないのか。そういった選択の全ては境界を引くことだ。
ぼくはその線引きにとても気まずさを感じる。
誰かを特別に尊重することで、排除しなければいけない他者のことをいつも想像してしまう。だから誰かをひいきすることがためらわれてしまうし、誰とでも一定の距離を保とうとしてしまう。その結果、周りの人からは冷たい人だと思われる。誰に対してもフラットで、敵も味方も作らない、そんな態度だ。
しかし全ての他者に優しくあろうとすることは、誰に対しても優しくしないことと同じだ。
それはとても無責任な態度だと思う。誰かを守りたくても、そのために誰かを犠牲にすることを恐れて何も出来ないのは本末転倒だ。
だからそういう人にならなければいけないとも思っている。「ともに生きる」という言葉から考えたことは、『「誰と」ともに生きるのか』ということだった。
でもやっぱり僕は、線引きをすることに気まずさを感じる。それは全ての他者を尊重しようとすることをどこか諦めきれていないからだろう。これは僕の頭を悩ませる永遠の課題になっていくような気がする。
この記事を書いたのは・・・
こんにちは。Kikusukuライターのあだちです。豚バラの入った肉うどんが好きです。これから文化人類学を専攻してフィールドワークをやる予定です。アウェーな環境にずかずか入り込んでいくのが多分得意。