バーチャル開放区2022入賞記念〜座談会「ともに生きる」ってどういうこと?【後編】〜

この度、掬-kikusuku-が「バーチャル開放区2022」において協賛賞を受賞しました!この受賞を記念し、受賞作品である「“web上の公園”をつくることにした。【kikusuku(きくすく)×ともに生きる】」内でも登場した座談会の様子を記事にしてお届けします!

座談会【前編】はこちら

バーチャル開放区2022入賞記念〜座談会「ともに生きる」ってどういうこと?【前編】〜

バーチャル開放区2022での受賞を記念し、「ともに生きる」をテーマにした座談会の様子をお届けします!【前編】

座談会【後編】では、咲良マモルも合流!何と「ともに生きている」かという話題から、kikusukuメンバーの表現活動について話が広がっていきました!


 〈座談会メンバーはどんな「表現」をしてきた人?〉

あだち

ドキュメンタリー映像作成の他、舞台での身体表現など幅広い表現活動に参加。

鹿の子

ポートレート撮影を中心として、写真や文筆活動など多岐に渡って活動。

咲良

高校から演劇を始め、主に役者として参加。

ノン

プロのミュージカル俳優・シンガーとして活動する傍ら、デザインやカメラマンなど多彩に活躍。

ひなた

演劇の脚本・演出に加え、俳優としての出演も行う。

マモル

映画、MVで主に脚本・監督を務める。


〈編集〉真白・ひなた

「私」って本当に存在するの?「人」とともに生きる

一言で「何とともに生きている?」

マモル:僕は「ひとびと」って書きました。

鹿の子:お〜。

マモル:明日にはすぐ変わりそうな答えですね。

あだち:そうなんだ。

マモル:ここ最近、友達みたいに年齢層が近いわけじゃないような、会社の人と飲みに行って楽しかった日もあれば、結構大きめのミスしちゃって色んな人に迷惑かけちゃった日もあり……。

鹿の子:ミスした時って、すごい急に人が近くになるよね。自分の大事なところに、すごく人がいっぱい入ってくる

マモル:うん……。自分が落ち込むのも楽しくなるのも、関わる人によるというか。人に迷惑かけたから落ち込むし、一緒にいて楽しいと思われたから、自分もめっちゃ楽しくなるし。自分っていないんじゃないかと思うくらい、人によって自分の気持ちが左右されるなって感じたんだよね。ちょうどここ数日で。

あだち:一番王道の答えなんじゃない?

ひなた:うんうん。それに、今言ってくれてた「自分が本当に存在するのかなって思うくらい、他人と一緒に生きている」みたいな感覚、わかるなあと思った。

マモル:忙しい時や、何かに熱中している時にそうなる気がする。ゆったりとした時間の中では、みんなと一緒に生きているってならないかも

鹿の子:私たちが見ている視点って、自分自身が見えていないじゃない?だから、内面に立ち帰らないと「自分が人としている」ことを自覚できない。無意識的に、神の視点からというか、自分というものを意識しないで生きている。それなのに、みんなには「鹿の子」という人が見えていて、それが私なんだなっていうことを考えると、宇宙の大きさを考える時みたいな、不思議な気持ちになる。

ひなた:確かにね。

演じる役と「ともに生きる」こと

鹿の子:さっき「ともに生きているのはわたし」って言ったけど、これは冷静な時に思っていることかも。疲れている時に考えると、全部夢のような気もしてくる。

あだち:確かに、1人でいる時しか自分のこと認識しなくない?

鹿の子:……ノンちゃんはかなり不思議そうな顔をしているけど?(笑)

ノン :私、必死に生きているのかな?(笑)

鹿の子ノンちゃんは、俳優として、自分を前に出して、自分にとって大事なものを他の人にも伝播させていく取り組みをしているよね。たぶん、私たちみたいな感覚だったらそういうことをできないんだよ。私がノンちゃんと同じことをしようと思ったら、その度に「鹿の子という自分がいる」ということを考えて、自覚してからやることになる。そう考えると、確かにノンちゃんは「おや?」ってなるかもしれないね。

ノン :確かに、最初に自分のことを考えるかもしれない。

あだち:役を演じている時も、役というよりも自分に意識があるの?

ノン :役によるけれど、絶対に自分はいる。役と自分が同居していて、両方の視点がある

あだち:俺もそういうタイプかもしれない。でも、演じていると自分がいなくなる人もいるよね。

ひなた咲良はそっちのタイプに近いんじゃない?

咲良 :そうだね。逆に、どうやったら自分を保っていられるのか教わりたいぐらい。冷静さを保っていないと、舞台に立つのって危険だから……。私は、自分がどこかに行ってしまっている分、急なアドリブとか、いつもと違う流れが来た時に混乱しちゃって冷静に対応できないことがある。だから、どっちも持てる人は最強だなって思ってた。

ノン :確かに難しいよね。演劇って、役を生きることだから、自我を無くすべきかなと思うこともあるんだけれど。私は、自分の立場から作品や役のことを考える。自分が中心にあるから、冷静でいるんだろうね。客観視しているところがある。

マモル:個人的な意見だけれど、役へのアプローチとしては、役に合わせていって役と1つになろうとするより、ノンちゃんみたいに役と自分を同居させる方が良い気がする。冷静に自分の目線で役を見つめて自分に落とし込んでいった方が、自分にはない視点や発想を取り入れられる気がするから。

鹿の子:まさに「ともに生きる」じゃない?なんか、うまくまとめようとした人みたいになっちゃったんだけど(笑)「ともに生きる」方法が役者によって違うっていうのはあるのかもしれないね。

あだち:俺は、逆に自分が消えるのがすごいと思う。

ノン :私は、役を演じる時に「ノンが演じる役」でいたいっていうスタンスなんだよね。

鹿の子「〇〇っていう役になろう」じゃなくて「ノンちゃんが演じる〇〇になりたい」っていうことね。

ノン :うん、どこかでノンの色を出せるようにしたい。そう考えたら、そりゃ自分は消えないよね(笑)

鹿の子咲良ちゃんは、冷静さが無いまま舞台に立つのが危険って言ってたけど、そんなのもう時代が違ったらイタコだよ?(笑)憑依させているのと同じだと思うんだけど。

あだち:その感覚を感じたことがないから、不思議な感じがする。

咲良 :アイデンティティが確立していない時期に演劇をやっていたから、こういう考え方だったのかなって思った。自分が自分だという認識が人よりも薄かったというか、私の体と心が私のものだっていう感覚が希薄で。自分の体や感情は入れ物でしかないって思ってた。だから役を演じる時は、役を自分に入れるというよりは、何者でもない私がその役に触れてみるみたいな感覚かな。ノンちゃんみたいに自分だからこそ演じられる役でありたいって考えられる余裕が私には無かったんだけど、でもそういう役者さんに憧れる自分もいて。

鹿の子:演劇にどう向き合うかではなくて、自分にどう向き合うかのスタンスが根本的に違うから、演じる時も感覚が違ってくるってことなのかな。

ノン :確かにね。私が、自分だからこそできる役でいたいと思うようになったのは、色々な作品やオーディションを経て「自分でいることが自分の強みだ」ってしっくりきた瞬間があったから。自分のどんな部分が評価されるかがわかってきて、それを生かしたいって思えたのが大きいかな。

ひなた:そうか、最初からそうだったわけじゃないんだね。

表現と「ともに生きる」

鹿の子:今は演劇の話だったけど、音楽とか映像とか、他の表現をしている人にも「自分とともに生きる」ことについてどう考えているのか聞いてみたいな。

ノン :表現に向き合っている人たちだよね。そういうのって限界が無いからさ。

ひなた鹿の子ポートレートを撮ってるよね?

鹿の子:うん。私は人の写真をよく撮るけど、その時は特に「わたしとともに生きている」って思うし、私にとって人の写真を撮ることがとても大事だって思う。この感覚なんだろうな……自己表現ではないんだよね。自分でも不思議で。私にとって大事なことだし、私の表現だけど、私を表すための表現ではないなと思う。

あだち鹿の子は「私を見て」っていうタイプじゃないんだろうなと思った。

鹿の子:確かに思わないかも。人と仲良くなりたいとは思うけれど、私のことは見なくていいって思う。

マモル:俺も、鹿の子が自分を表現する手段として写真を撮っているわけではないと思う。写真は、鹿の子が他の人をどう表現するかの手段なんじゃないかな。鹿の子のレンズを通して撮っているし、「鹿の子がどう自分を切り取るか」っていう観点で撮影をお願いする人もいるだろうから。間違いなく鹿の子にしかできない表現ではあるんだけど、どちらかというと外に向けた表現というか、鹿の子が他人をどう表現するか、という。

鹿の子:うんうん。マモルは自分に引き寄せた脚本を書くことが多いと思うけど、どう?

マモル:そうだね、俺の場合は完全に自分のエゴで。常に自分が救われたいと思っている部分があって、そんな自分の中から生まれた気持ちや考えを形にしたい。だから、脚本もキャラクターも俺の分身みたいなところがある。作品を見た人から「主役のキャラは篠田本人だったね」って言われることが多いんだけど、それはそういう理由かな。

ひなた自分をまっすぐ反映させられるのもすごいよね。私も脚本を書くけど、もし自分を出すとしても、ちょっと色を変えたくなるというか、作品の中に紛れ込ませるというか……。分身を出すのは恥ずかしくなっちゃうんだよね。

マモル:自分の考えを外に出すことが、自分を肯定することにつながるんだと思う。「自分の考えが良いものである」と描くことが肯定というよりは、自分の思いを映像で残すことで、数年後の自分の考えが変わったとしても、その時思っていたことが可視化される。結構なエゴなんだけど、それが自分を肯定できることだなと思っていて。でもたくさんの人を巻き込んでるし時間もかかっているから、ただ自分の気持ちを表現するだけじゃなくて、誰もが楽しめるように普遍性を持たせるように意識している。そうやって作品を作るから、自己表現的な部分があるのかもしれない。

鹿の子マモルは切実だよね。「自分の考えが存在する」ことの証明として作品に残す、みたいな。でも、そういうタイプの表現をする人は意外と少ないと思う。ストレートなひたむきさでやる人って、そんなにいないんじゃないかな。

マモル:そうなのかもしれない。自分の後輩の中には、60歳くらいの老人が主人公の脚本を書いて、役者をオーディションで選んで撮っている人もいて。でも俺は、その主人公は自分の中のどこにいるんだろう、自分は書けないなと思ってしまう。自分と年齢層が違う人の気持ちがわからないから、そういう脚本を書く人は本当に尊敬する。5歳くらいの幼稚園児が主人公の作品をやっている人もいたけれど、なんでそんなにピュアに戻れるんだろう、みたいな。俺は自分と近しい部分しか出せないから、もう少し幅を出せたらいいなって思う。その後輩にとってはその主人公が自分なのかもしれないけれど。

鹿の子:面白いね。全員に聞いてまわりたい(笑)

あだち:老人や子どもが主人公の作品を撮った人にも、自分に寄せた部分があったのかもしれないけれど……やっぱり自分そのものを表現するのって恥ずかしいじゃん。自分をそこまでむき出しにできないから、他のものに変換してるんじゃないかな。マモルみたいにむき出しにするのはためらわれるんじゃない?(笑)

マモル:俺もあんまりむき出しにはしたくないんだけど(笑)。その方法でしかできないというか。「単位がやばい」とか、そういうセリフを言わせたいとなると、やっぱり学生になっちゃうから。

ひなた:そっか。リアルなセリフが書きやすくはなるよね。

マモルあだちはドキュメンタリーを撮っていたけれど、それは自己表現しようとしているわけではないよね?ドキュメンタリーってどういう立ち位置なんだろう。写真に似ているのかな?

あだち:自分を表現するというよりは、撮影対象のことを知りたいっていう欲望が撮影する理由になっている気がする。

マモル:なるほどね。でも結局、その対象について知りたいと思ったのも撮影しようって決めたのも自分だよね。

あだち:そうだね。鹿の子の写真の話もそれに近いのかな。

鹿の子:確かに、全員が私みたいにポートレートを撮りたいと思うわけではないよね。でも、私自身もそうなろうと思って生きてきたわけではなくて。他のみんなも、芝居や映画を好きになろうと思って生きてきたわけじゃないけれど、気がついたら好きになっていた。それが自分と他人の違うところだし、それを真剣にやっていくことが「わたしとともに生きる」上で必要なことなのかもしれないね。<終>


「表現」とともに生きるメンバーたちの本音が溢れた座談会となりました。あなたは「何と」ともに生きているのでしょうか。ぜひ、あなたの言葉も聞かせてくださいね。
記事の感想は、ページ下部のコメント欄やSNSにて。ハッシュタグは#きくすく です!

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