表現とは呪いだ
表現とは呪いだ。
表現をし続けることで心の平穏は保たれるが、
作り続けることで失うものが大きすぎる。
6歳の頃からカメラを回し、何かを作り続けてた僕は
社会人になっても性懲りも無く何かしらを創作している。
それは文章やラジオやら色々あるが一番は映像作品だ。
大学の頃は映像について学ぶ大学に通っているから、卒業単位がかかっているからという大義名分があった。
でも今は、何も無い。
誰からも求められてないのに、作っている。
ここまで読んでいるとそんなに無理して作品を作る必要がどこにあるのか?と疑問に思う人が大半だと思う。
僕も客観的に文章化していてそう思う。
でも作品を作らないという選択肢を僕はどうしても取れないのだ。
社会に出て打ちのめされて、救いを自分の表現に求めてしまう。
そういうセラピー的な部分が表現にはある。
今までの作品も、作った一番の理由は「僕がその作品によって救われたいから」という、自己中心的な理由だった。
毎回作品を作れて本当に嬉しく思うし、
当たり前だけど作品は1人では作れないので、
その作品毎に手伝ってくれる他者の存在に感謝してもしきれない。
それなのに自分は表現を呪いと言ってしまっている。
でも考えれば考えるほどに、表現とは終わりなき呪いの旅のように思える。
チームで一つの作品を作り、何かを表現することはもちろん素晴らしいことだし、自分もそう信じたい。
でもそれは作品を作り終えたほんの一瞬だけなのだ。
スタッフの言葉、観客の反応、バラバラだったものが一つになって書き出しボタンを押すあの瞬間。
全ての喜びは一瞬で消えてしまう。
作品を作るまでは大変なことが多いし、表現する上で他者と多少衝突することも避けられない。
そして作品を作って半年もすると、もう次の作品を作りたいと思ってしまう。
まさに表現は呪いのような存在だなと思う。
作らなくても生きていけるのに、作りたいと願ってしまう。
作れば刹那的に救われるが、作れば作るほど苦しくなる自分もいる。
この贅沢な苦しみにますます最近悩まされてきている。
何かを表現する体力も、時間も、お金も、どんどん制限されてきている。
ただこの呪い自体を否定したくはないし、この呪いのおかげで、今は会わなくなった昔の友人、そして初めて出会う新しい人々、そういった出会いの場が作られているとも言えるのでむしろ感謝している。
今の悩みは、もう少しこの呪いとうまく付き合うことができないかを考えている。
映画だとどうしてもお金がかかる。例えばYouTubeならどうだろうか?よりコスパが良く、自身の作品を作ることができるのではないか。
そんなことを考えながら最近は11/16、17に向けて上映予定の新作短編映画の編集をしている。
社会人になって初めて作った映画。生きるって大変だな。そんな自分の心を、映画の中のフィクショナルな存在が寄り添ってくれる。
そんな映画になっていると思います。15分くらいで、今までで1番シンプルな話になりました。もしよかったら、見にきていただけると嬉しいです。
「映像身体学を実践する」vol.1
上映日時
11/16(土)14:30-『こうえん』
11/17(日) 16:45-17:00『こうえん』17:00-18:30『We are movies!』
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マモルです。作品を見ること、作ることが大好きです。ちょっと気を抜くとすぐに、折り畳み傘に髪の毛がひっこ抜かれてしまいます。気を引き締めて毎日生きてます。生き急ぎ過ぎないように。