「かたちを持たない私と、」#1
#1「誰と、ともに」


kikusuku編集長のひなたです。演劇とテレビドラマと甘いものと寝ることが好き。立教大学大学院 現代心理学研究科・映像身体学専攻・博士前期課程修了。
私は、一体何と、誰と「ともに」生きているだろうか。
私は、本当にたくさんの物や人たちとともに生きている。
例えば、さっき食べたお米。
そのお米を作った農家さん。お米を運搬してくれた配送業の人、スーパーの人……。
「人は一人では生きられない」なんて言うけれど、本当にその通りだ。私は私の知らない無数の物や人のお陰で生きている。
でもなんだか、実感は湧きづらい。もっと近くで「ともに」生きているものは?

一日中寝っ転がっているような日は、おふとんと「ともに」生きている。
ドラマを観ている時は、その登場人物たちや物語と。
舞台上で芝居をしている時は、自分が演じている役と。
友だちとお酒を飲んでいる時は?
……どうだろう。その友だちと「ともに生きている」のだろうか?
お酒も入って、その場も心もほぐれて、深い話をするような時間帯、心が喜びに震える瞬間と出くわすことがある。
「こんな話、打ち明けたいと思えるような友だちができるなんて」
「こんな感情に『そうだよね』と頷き合える人に出会えるなんて」
それは、誰にも分かってもらえないと思っていたことを共有したいと思えた時。
よし、話すぞとお酒の力を借りながらちっぽけな勇気を奮い立たせた時。
自分の拙い話を相手が柔らかくあたたかく受け止めてくれていると感じた時。
そして、丁寧に慎重に言葉を選びながら「相手の大事な部分」を手渡された時。
その言葉の一つ一つに自分が共鳴していることを自覚した時。
あなたと私は今「ともに」生きている。そんな実感がこみあげてくる。
私はそれがすごく嬉しくて、泣きそうになって「生きてるといいこともあるもんだ」って思わず顔がほころぶ。きっとくしゃりと笑っている。それか、必死に涙をこらえてものすごい形相になっているかもしれない。

でも、そんな瞬間は稀だ。奇跡みたいなひと時だ。
人と話していると、割とよくこんなことを思う。
「あなたと私は生きている世界が違うんだね」
断っておくと、それは決して悪いことではない。人は皆、違う。それは当たり前のことだ。所属している場所や組織が違えば、生まれ育った環境も違うし、身長も体重も、好きも嫌いも得意も苦手も、何もかも違う。それが人間だ。
あなたの目で見る景色はあなただけのもので、あなたの頭で考えることもあなただけのもの。私には手の届かない「それ」を、私はあなたと一緒に過ごしたり、おしゃべりしたりすることで垣間見る。それはすごく刺激的で、幸せなことなのだ。あなたと私は「違う」からこそ、面白い。
でもだからこそ、私はあなたと「違う」ということが、無性に悲しくなることがある。

「ともに生きる」という言葉を聞いた時、私はすぐに自分の周りの人たちのことを思い浮かべた。家族、友人、同期、先輩、後輩……。
でも私は、彼らと「ともに生きて」いるだろうか?
もちろん私の頭の中には、いつでも彼らがいる。思い出そうとしなくてもすぐ顔や声や思い出が浮かんでくるし、すぐには思い出せないような知り合いですら、私の記憶の中にしっかり埋まっていて、私の中に存在している。そういう「私の中の彼ら」とは、ずっとともに生きている。「記憶の中」とも「イメージの中」とも言えるかもしれない。
でもそれは私にとっての彼らであって、彼ら自身ではない。
友人たちの顔を思い浮かべてみる。
一人ひとりが「自分の足で自分の人生を生きている」
そんなイメージが湧き上がってくる。
それは、私と「ともに生きる」というより「それぞれがそれぞれの人生を生きている」と言った方がしっくりくるような感じ。だから私が勝手に「ともに生きている」なんて、いっしょくたにしてしまうこと、それはなんだかとても傲慢であるような気がしてしまうのだ。
でも、それぞれがそれぞれの場所で生きていること、そして時々私と一緒におしゃべりしたり、ご飯を食べたり、お酒を飲んだり、どこかに遊びに行ったり、会えなくてもふと気にかけてくれたり、そうやって繋がっていられること。
それを「ともに生きる」と呼ぶのなら、私は、私の周りにいる大切な人たちと間違いなく「ともに」生きている。
私たちは皆独りきりだし、私たちは皆一人じゃない。
でもやっぱり誰かと「ともに生きている」と言い切ることは私にはできなくて、だから次回は「何」とともに生きているか、なんて話をしてみようと思う。
#2へつづく <※次回、#2「何と、ともに」は11/15(火)に公開予定です。>