小沢健二 東大900番講堂講義・追講義 + Rock Band Set リアクションペーパー 

(リアクションペーパー、通称リアぺとは大学の講義後に配られる、 

講義内容についての感想や意見を書く紙のことを指す。

今回は小沢健二さんが2023年10月2日に行った追講義を受け、自分が感じたこと、思ったことをまとめてみた。

あくまでもリアクションペーパーであり、ライブレポートではないことをご了承いただきたい。

本記事はライブの感想であり、内容は筆者が感じた個人の意見によって構成されております。)

今回の講義で自分が感じたことは2つある。

1つは人間のどうしようもなさを愛そうということだ。

この世界には私利私欲のために様々な行動をとる人がいる。

小沢教授は色々な人を例に挙げた。

例えば、セコい方法で新しい商品を売り出していく人たち。

この人たちを説明する上で触れておく必要があるのが『プランド・オブソレッセンス』という考え方だ。

プランド・オブソレッセンスとは即ち計画された古さという意味だ。

これはつまり、最先端の技術をそのまま最新の製品に搭載するのではなく、

そこから1段階古い技術を埋め込んで新商品として販売する方法論を指す。

こうすることで、現行モデルよりかは新しい商品を売り出しつつ、

まだ世に出ていない新しい機能を隠し持つことができるのだ。

例えば、パソコンなどの電子機器は常に軽量化することを求められる。

もし仮に現行モデルが1キログラムのPCと同じスペックで重量を300グラムにできたとしよう。

開発者はいきなり300グラムにした商品を出すのではなく、

500グラムくらいにして新商品として世の中に発表する。

そうすれば、世間から見れば500グラム軽くなったので新商品としての立派なニーズが生まれるのだ。

こうして開発者たちはすでに存在する機能を新機能として世の中に出すことができる。

新しいものを生み出すことはとても大変だ。

だからこそ絶妙な古さを埋め込んでいくことが大事なのだ。

これが『計画された古さ』である。

そしてこれは50年以上前からマーケティング理論の1つとして大いに支持され続けている。

僕はこの話を聞いた時になんてセコい大人がいるんだと憤ってしまった。しかし、僕自身も上司から仕事の進捗を聞かれた時に、本当は終わっているのに50%くらいですと報告することがよくある。そうしないと新しい仕事が次々入ってきてしまうからだ。これはある意味『計画された古さ』と似ている。

あぁ自分もセコかったんだなと気付かされる。

次の例はお金を出資してもらうために、

そこまですごくないプロジェクトをまるで世界が変わる一大革命の様に誇張して伝える人たちだ。

ヒトゲノム研究と呼ばれる研究分野がある。

これは人のDNAを解析することで、人間の設計図を手に入れることを目的とした研究である。

将来的にはゲノム解析を医療技術に組み込むことで、一人一人の人間に合わせた病気の治療が行えるなどといった目標を掲げている。

さて、話は1980年代。ヒトゲノム研究を将来的にも持続させるため科学者たちが悩んでいた時期に遡る。

科学者はヒトゲノム解析のためには何十年という年月が必要であることをわかっていた。

そしてそのためには研究資金を提供してくれる出資者を募る必要があることもわかっていた。

そこで彼らはどのような呼び込みで出資者を集めたのか?

それは自分たちの研究を、聖杯を手に入れるようなものだといったのだ。

聖杯とはロンギヌスの槍で刺されたキリストの血を受けた聖なる器のこと。

つまり、人間の領域を超えた伝説的な力を指す際に用いられる。

だから、私たちの研究に資金を出してくれれば、今まで人類が知ることのできなかった人間自体の設計図を手に入れることができる。

要はお金を出してくれれば特ダネが手に入ると出資者を集めたのだ。

資本家は科学者ほどゲノムには詳しくない。

だから科学者の言葉をすんなりと受け入れてしまった。

むしろわかりやすく興奮する説明だったので資本家は科学者に感謝したかもしれない。

ゲノム研究と言われたらなんのことかわからないけど、

人間の最大の秘密を解き明かすための研究と言われたらすごく理解できるし、

なんだかワクワクする。

そんな気持ちだったかもしれない。

しかし科学者は違う。

科学者はゲノム研究のことをもちろんわかっていた。

そして、事実当時のヒトゲノム研究はまだ人の解析図を作る上では初めの1歩も満たしていないということもわかっていたのだ。カレーライスをつくることが最終目標だとするなら、スーパーに野菜を買いに行こうと靴を履いたくらいのレベルでしかなかったのだ。それでも科学者は資本家をワクワクさせて資金を得た。

僕はこの場合誇張した広告で資金を集めた科学者ではなく、

それに引っかかってしまった資本家をどうしようもないなと思った。

しかし、自分も振り返ればこの前ここでしか手に入れられない超レアものという触れ込みに誘われ、興味がないにも関わらずプラモデルを買ってしまったことを思いだす。

やっぱり僕もどうしようもない人間である。

しかしとても印象的だったのが、教授がこの人たちを、

こんなに面白い人たちがいたんだよというように楽しそうに説明していたことである。



次に僕が感じたこととしては、

変わり続けることを肯定しようということだ。

本講義では常に普遍のもの、即ち『絶対』という価値観に真っ向勝負を挑んでいた。

その一つがプラトンである。彼が打ち出した説の中でとりわけ有名なものが『イデア』だろう。

イデアとはあらゆる事物における永遠不滅の本質を指す。

つまり絶対に変わらないもののことを指す。

ここに教授はメスを入れていく。

プラトンが考えたイデア自体は一見とても正しくて真っ当なものに思える。

それこそイデアの考え自体が正しいし、永遠不滅の本質である様に思える。

しかし、問題はそれを考えたプラトンである。

プラトンが考えたものとしてもう一つ有名なのが国家論だ。

これは国家とはこうあるべきだという理想的な社会について述べた論である。

永久不滅の本質について考えたプラトンのことである。

きっと違った価値観を受け入れて、みんなが自由で平和に暮らせる社会こそ理想であり本質だと述べているだろう。

しかし、その幻想は瞬く間に打ち砕かれる。

問題の内容については触れないが、今の時代に生きる僕たちからしたらとても受け入れられない様な内容を社会の理想として述べている。

プラトンの国家論が間違っていると言いたいのではない。

大事なのはこれが2400年前のスタンダードだったということだ。

この本が出た2400年前は、この考えが広く一般的だったし、信号の青は進め、赤は止まれと同じくらい当たり前のことだったのだ。もし僕も当時その時期に生まれていたとしたら、この国家論を受け入れていたかもしれない。

正しいと思われていたものが長い時を経て間違っていると思われる。

そう考えるといつの時代にも通じる様な通説を、100年足らずしか生きられない一人の人間が思いつくことなんてできないのではないか。そう思ってしまう。

それはプラトンについても例外ではない。

プラトンだってその時代に生きた影響を色濃く受けている。

彼の生きた当時、世の中はこれもあれもそれもといった様に、様々な存在が一つになって溢れかえっていた。そこでプラトンはこの世の中を整理しなければと思った。

正しい、永久不滅の本質をどんどんと見つけ出し、この世界を整理していこうと思った。色々なものをどんどん定義していき、やがては断言していった。

私たちがこの世界に存在しているのは永久不滅の本質だ!と同じ感覚で、

弱いものは切り捨てるといった優生思想も永久不滅の本質だ!と言ってしまったのだ。

それは『イデア』というよりかは現代の価値観でいう『決めつけ』に近いものを感じる

だからこそプラトンの考えるイデアでさえ、決めつけなのではないかと思ってしまう。

この世には永久不滅の本質がある。それこそがイデアなのだ。

しかしその考えは当時のごった返した世の中を整理する必要があって生まれた考えなのではないだろうか。

今、世の中はそういった過去の人間が作った枠から抜け出していくことが主流になっている。

ダイバーシティ=多様性の世の中になっている。イデアは確かに支持を集めた。

しかし、時代性や一人の人間が考え出した理論であることを考えると、これからの時代イデアが絶対的に支持を集め続けるとは思えないのだ。

プラトンのイデアなどを用い、僕は長い時間によって変化がもたらされることを知った。

さらに教授は内と外の関係性も例に挙げた。

内と外は互いに影響しあっていく。

これはつまり、内側と外側にあるものは一見それぞれが独立している様で、

お互い干渉してしまうということだ。

それではなぜ干渉してしまうのか?とても興味深い仮説が導き出される。

それはそもそも内側と外側で分けることができず、

もともと一つの存在から抜け出すことができない、

そのせいでお互いに影響を受けざるを得ないのだという仮説である。

例えば、親と子の関係が例に挙がる。親と子も一見別の存在に見えるが、

元を辿れば1つの存在だった。

子供が生まれた瞬間、親も同時に誕生する。

親によって子供は成長するが、その子供によって親も成長していくのだ。

まさにもともと1つだったものが分けられた結果、

相互的に影響を与えることの好例だと言える。

ここまできてふと気づくことがある。

僕が今回の講義で感じ取ったこと、そして教授が伝えたこと、

それは教授自身にも言えることなのではないかということだ。

教授は本来はミュージシャンである。

そしてミュージシャンとしての彼は正直ちょっとどうしようもない部分があったりする。

ライブでは歌詞を間違えちゃうし、元々の楽曲のキーが高すぎることもあるが、

時折声が出ていないと感じてしまうシーンに遭遇する。

そんな少しどうしようもないところもある彼のLIVEにそれでも行きたいと僕たちは思う。

なぜなら、教授にはどうしようもなさを上回るほどの素晴らしさがあるからだ。

声が出ない、それはミュージシャンにしてみればある種恥ずかしいことだと言える。

でも教授はそんなことを気にせず、ただただ楽しそうに歌っている。

多幸感に満ちているのだ。その多幸感に僕らも包まれてしまう。

『強い気持ち、強い愛』をオーディエンスと一緒に歌うのも決して喉の負担を抑えるためじゃない。

楽しいからなのだ。『流動体について』のサビのキーが高いのも教授によればグワーっと思いっきり、

そういうふうに歌いたかったからなのだ。

ヘタウマという言葉があるように、教授の歌は上手くはないかもしれない。

ただ有り余る魅力に溢れている。

教授は自分も含めて、みんなどこかどうしようもなさを抱えている。

それでもそこを肯定して、そのどうしようもなさもひっくるめて愛おしさを感じていこう。そう言っている様に感じた。

そして教授自身も活動休止前と後で大きく変わったように思える。

僕は『流動体について』以降の小沢さんしか知らないが、そんな気がするのだ。

15年以上日本へ戻らず、僕たちはもう彼の歌を直接聞くことはないのかと絶望した。

しかし、彼は戻ってきた。その上で変化していた。それは親になったということだ。

内と外の話にもあった様に、人は子供を持つことでそれまでとは全く違う自分になる。

帰国後の新曲にも教授の親としての変化が色濃く反映されていた。

『フクロウの声が聞こえる』では親と子の会話の様な構成でレコーディングがなされていたし、

『ウルトラマンゼンブ』などは実際に息子との会話の中で発想された曲だ。

また、既存の曲をリミックスして披露するのも変化を表現している様に思える。

原曲の形にとらわれず、過去の曲と今の曲を流れる様にシームレスに繋げていく。

もちろんそれぞれの曲の中で失われるパートはある。

それでもこの一過性のパフォーマンスはまさに不変なんてないことをミュージシャンにしかできない方法で表現している様に思える。


これからも、変化を受け入れ、どうしようもない自分を肯定しながら生きていきたい。

そんなことを教授の講義を聞いて感じた。

マモル

マモルです。作品を見ること、作ることが大好きです。ちょっと気を抜くとすぐに、折り畳み傘に髪の毛がひっこ抜かれてしまいます。気を引き締めて毎日生きてます。生き急ぎ過ぎないように。

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