訪れるものに開かれる


「訪れるものに開かれる」

この言葉は僕の心をすっかり掴んでしまったパンチラインです。はじめにこの言葉を聞いた時、その意味を説明されずとも直感的に理解できるような、自分がそれまで漠然と感じたり考えたりしていたことが一気に言語化されたような、そんな衝撃がありました。「強い言葉」だなと感じました。なんか、意味はわからなくてもかっこいいでしょう?

今回はこの言葉を切り口にちょっと哲学的なお話をしていきたいと思います。

この言葉は、社会学者の宮台真司さんがおっしゃっていた言葉です。この言葉の意味を簡単に言えば、「自分で主体的に選ぶことばかりにこだわらず、周りの環境に身を委ねてみる」ということになるかと思います。宮台さんは「訪れるものに開かれる」という構えが、現代の社会に失われつつあると言います。なぜこういった構えが重要なのか。詳しく見ていきましょう。

多くの人は、「未来はまだ決まっておらず、どんな未来も存在しうる」と考えるでしょう。だからこそ私たちは、未来をより良くするために自らが主体的に行動し努力します。自分のことは周りに左右されることなく自分で決められると考えます。これは私たち一人一人のあがき、つまり能動性こそが重要だという世界観で、現代の社会で一般的に共有されているものです。

しかし、『訪れるものに開かれる』という構えは、そのような世界観とは真逆の世界観をベースにしています。それは、宮台さんが「初期ギリシア的」と呼ぶものです。

© Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Common
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ギリシア悲劇の一つ、オイディプス王の悲劇を知っているでしょうか。ある王様が「お前の子がお前を殺し、お前の妻との間に子をなす」という神の預言を受けます。王様は預言の成就を阻止しようと、生まれた息子オイディプスを殺そうとしますが、オイディプスはなんとか隣国に難を逃れることになります。しかし成長したオイディプスは、意図せぬ結果として父と知らぬままに父を殺し、母と知らぬ間に母と結婚して子どもをもうけてしまいます。それによって預言は成就されてしまったという物語です。

この物語の前提には、「もともと世界は不条理で溢れている」「未来はすでに決まっていて私たちがいくらあがいたところでどうにもならない」という世界観があります。運命論的とも言えますね。このような世界観を持った初期ギリシアの人々は、未来を努力でどうこうしようとするのではなく、世界から自らに降りかかってくるものを引き受けていく覚悟こそが重要だと考えました。もちろんそこには不条理や苦難がありますが、それに耐え続けるのです。このような構えを受動的能動=中動性と言い換えることもできます。それは、世界からの訪れに対して自分を閉ざさずに開いていく、積極的に受容していく構えです。

これこそが「訪れるものに開かれる」の意味です。今の時代の僕らは、主体的であることを求め続けられます。「夢を叶えましょう」「自己実現を果たしましょう」「そのために努力しましょう」というような言葉は世の中に溢れています。学校でも、テレビでも、アニメやドラマでも。この様な価値観は素晴らしいものとして謳われてきました。私たちはそれを信じて努力をしますが、ほとんどの人が挫折を経験します。自分の思い通りにはならず、苦汁をなめることになるでしょう。


しかし、世界はもともとそうなってはいないのです。

世界はもともとでたらめで不条理に溢れています。人間一人がどうあがいたところでさして意味はありません。それを認めることからはじめるのが、初期ギリシア的な世界観です。

このような世界の見方は悲観的すぎると感じる人もいるかもしれません。しかし私は、むしろ救いがあると感じました。物事が自分の思い通りに行かない方向に向かっていっているとしても、それに絶望するのではなく、むしろその訪れに期待をしてポジティブに読み替えていくような価値の転換があるからです。それに、もし上手くいかない出来事があったとしても「自分のせいじゃねーし」と開き直れるのもいいなと思います。

考えてみれば、人類史上、人間が自由で主体的な選択をすることを許されたのはここ100年くらいの出来事です。ほとんどの時代を、人間たちは限りなく狭い選択肢の中で生きてきました。自分の村で田畑を耕して一生を終えた人が多かったでしょう。そこには職業選択の自由なんて当然ありません。現代人が聞けば卒倒するような世界。でも、現代を生きる私たちが彼らよりずっと幸せだと言えるでしょうか。過去に生きていた人々には「訪れるものに開かれる」構えがあったのではないでしょうか。

もちろん、ただ「昔に戻れ」と言いたいわけではありません。しかし、時代の価値観のアップデートが急速に進む今、あえて逆張りをして、そこに価値を見出していくことにも意義はあるのではないかと私は思います。

話の続きをしていきたいところですが、長くなってきたので今日はこのへんで。
話の続きは次回をお楽しみに!

参考:宮台さんの解説はこちらの動画から
【5金スペシャル映画特集Part1】映画は「時間」をどう描いてきたかhttps://www.youtube.com/watch?v=Pqwgvtvt318&t=1615s

あだち

こんにちは。Kikusukuライターのあだちです。豚バラの入った肉うどんが好きです。これから文化人類学を専攻してフィールドワークをやる予定です。アウェーな環境にずかずか入り込んでいくのが多分得意。

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