「推し」と「押し」の違い

 人々は「推し」に何を求めて「推し活」を行っているのか。今回は私なりに「推し」という概念や、「推し活」の在り方を整理し、日頃思っていることを述べてみたいと思う。 

 推しに似た概念として「俺の嫁」「萌え」「贔屓」「リスペクト」などが存在していた、いや、今も存在しているのだろう。しかし、いつの間にか世間的に猫も杓子も「推し」という概念を「推す」ようになった。 

 大抵の「推し」は私たちと同じく生きている人間である。しかし中には、神や仏のように聖なるものとして奉るが如く、崇拝の対象と同等のような存在として「推し活」をする人々もいる。しかし「推し」は基本的に生きている。生身の人間で在ることが多い。アバターのおかげで忘れやすいかもしれないが、VtuberやVライバーにも「中の人」が存在する。崇拝することも、信仰することも、偶像(アイドル)化することも個々人の自由ではある。「推す」ことは構わないが「推し」に対して自身の想いや願望を「押し」付けることはいかがなものか。

 価値観はひとそれぞれなので「押し」付けは望ましくない。「推す」ことは自由だが「押す」ことは異なる。また同じ「推し」を「推し」ていても熱量や「推し」方が異なる場合も多い。間違っても自身の「推し」方や「推し活」を他者に「押し」付けてはならないと思う。

 なにより「推し」の生活や将来を案じるのであれば「推し活」の在り方も「推し」のことを第一に考えるべきだと思う。己の「推し活」の在り方が「推し」の活動を妨げていたり「推し」の評判を損なうことに繋がってしまっては「推し」を傷つけているのと同然ではないだろうか。

 「推し」を応援する気持ち、愛する気持ち、尊敬する気持ち、その度合いや熱量、手法は個々人の自由であるからこそ同時に責任もある。自身の無責任な言動で「推し」の活動や、「推し」人生の選択肢を狭めていないか。

 「推し」がファンや一般に見せてくれているのはあくまでも「推し」としての一面でしかなく「推し」にもプライベートや多面的な人間性が存在している。これらを前提として「推し活」を楽しむことで「推し」や「推し活」仲間と良好な関係性を築けると私は思う。

捺稀

捺稀(なつき)と申します。親から授かりし本名です。
好奇心の赴くままに生きているその辺の会社員です。映像身体学部ではなく、INIAD(東洋大学情報連携学部)出身です。
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