フランソワ・オゾン『苦い涙』(22) ―光で滲む映画監督の二つの瞳―

――著名な映画監督ピーター・フォン・カントは、恋人と別れて落ち込んでいた。そこへ、3年ぶりに訪ねて来た大女優で親友のシドニーが、美しい青年アミールを連れてやってくる。ピーターはたちまちアミールに恋をするが……。物語の舞台をアパルトマンの一室に限定した本作は、すでに映画監督として成功しながらも、プライベートでは孤独と不安に苛まれている主人公ピーターの姿を通して、愛というものの本質をあぶり出していく――

 さて、このあらすじを見た時にドイツ人巨匠を思い浮かべる人はどれだけいるだろうか。それほどに現代映画においてライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは忘れ去られているように感じるが、それは彼の作品を観る機会がないことに尽きる。故にこの作品はフランソワ・オゾンの極個人的な作品であると同時に、ファスビンダーの偉大さの再認への機会になるのだろう(実際に今夏にファスビンダー特集が渋谷で組まれるようだが、それこそこの作品がもたらした一番の功績なのでは?と個人的に思う)。

ここ最近の数作は全く馴染まず、フランソワ・オゾンとの決別すら考えていた私にとって極めて重要な85分になる気がしてならなかった。

 主人公ペトラは性別を男性に変え、ピーターと呼ばれる。職業もファッションデザイナーから映画監督へ。助手と恋の相手も併せて男性になり、二つの作品の架け橋となったハンナ・シグラは母親役になった。設定や役割、アパルトマンの閉鎖感がなくなったことなど、ファスビンダー版『苦い涙』との違いは多くあるが、展開の岐路に差し掛かればその都度、オゾンはファスビンダーに倣って進路を決めていくため、大きくは逸脱することなく物語は進む。結論としては、オリジナルのラストショットの上品な凝縮さをオゾン版には伺うことはできなかったが、自己満足のオマージュ映画に留まることなく、二つの時代を接合したモダンな翻案に導いたと言える。それにはいくつかの要素があるが、二つの変更点をピックしてみることにする。初めに断りを入れるが、オゾンが行った刷新と質の云々は別物である。ただ、その刷新は観客が映画を観易くするものであることは確かだ。

 ➀ 主人公が映画監督を職に持ったことで原作と何が変わったか。ファスビンダー版でファッションデザイナーの肩書きペトラは助手のマレーネにデザインを命令する。彼女は自身が著名であることをチラつかせ、カリンとの距離を縮める。しかし、ここに彼女がファッションデザイナーである理由は特にない。アーティスティックな職業に於いて自身が成功していることに重きは置かれるため、言ってしまえば職業は副次的なものである。自分がデザインした服を着せる時の密着する二人という部分はなにかを示唆しているようだが、ファッションデザイナー以外でも代替可能だ。

 次に、映画監督になったピーターに話を移す。彼はアミールに惚れ込むとすぐさま新作の映画の話を持ち掛け、カメラテストを行う。この時、助手カールを含めた三人は別室に移動し、ピーターとアミールはそれぞれに座る(オゾン作品で頻繁に用いられる移動する人物の背中を映す“祈り”的なショットは、監督椅子に座っているピーターを映すこのショットのみに適応されているが、室内劇とあってか本作において背中のショットは欠如している)。ピーターとカメラの視線を同時に受けたアミールがこれまでの23年間を振り返っていると、カメラはアミールの顔へとズームを始める。ここにピーターが映画監督であることによって可能になった拡がりがみられる。二人が向き合って座っていることはその間二人の物理的距離が変化しないことを意味する。しかし、ピーターはアミールの経歴に自分を重ね、ボルテージが上昇する。それと呼応するようにカメラはアミールに近づく。ピーターがアミールに向かう、引き寄せられると言った方が正しいか。心的距離を縮めた(FromピーターToアミール)人物の精神と職業を結びつけている。そしてこれ以上カメラが近づけなくなるとピーターは立ち上がり、カメラを固定装置から解放し、自身の眼でファインダーを覗く。この行為の連続は爽快かつ、見事だとしか言えない。

 ➁ 助手のカールは一言も話さない。ピーターの指示に従いタイプライターを打ち、部屋の奥で飲み物を作って提供、来客を駅まで送るのも彼の役目であり、手を取られたら一緒に踊る。朝にはカーテンを開けると「まだ寝ていたい」と小言を言われるが、表情一つ変えない。毎日小綺麗な服装で髪型を整え、部屋を移動する。彼はピーターを崇拝しているのだろうか、と予測すら立てるがあまりにも彼は作品の中心にはならない。もちろんオゾンの演出によって配置は決められているのだが、それ以上に排除めいたものを感じる。カールが外の存在であるという作品上での暗黙の了解は、ピーターがこの一室においてカールに与えた権利と重なるのではないか。ピーターの周りで指図されることは、カールがその空間で存在する為の条件であり、よって彼が中心に来ることはできない。もしカールが出来事の発端になることがあるとすれば、それはこの主従関係の終焉を意味する。これは上に立つ者としてピーターの権力の行使であり、決して暴力でカールの行為を抑圧していない。そこに外で動き回れるカールを描き続けることができるし、ある意味で関係が終わることへのカウントダウンも始めている。

しかし、実はこの扱いはファスビンダー版でも同じようなものになっている。助手マレーネの行動は長回しの演出と相まって省略がなく、ますます背景化されていく。画面を占める音はマレーネが打ち続けるタイプ音であり、来客を知らせるベルだ。ベルとタイプ音が同列になり、この行為者のマレーネもまたフレーム外の存在である。フレーム外で鳴ったベルに対してタイプの音が止み、十秒後に扉が開く。この出来事でマレーネはフレーム内に入ることなく、存在する。「限りなく居ないのだが、しかし居る」のが助手である。マレーネは人間で型取った容器であると言って差し支えない。

 では、ピーターもそうであるかと言われたら、もげる程に首を横に振る。オゾンは助手という容器に中身を注いでいる。ピーターとアミールが近づいていく様を外から“見ている”からだ。見ることは知覚することであり、なんらかの刺激を受けなければならない。考えていないように映ってもそうではない。ファスビンダー版では最終的に背景となった助手は、オゾン版になると、部屋の中で起こっている出来事を見ている人として存在する。どちらも外であることには変わりないが、“見る人を映す”ショットを重ねることで、我々は人物がそこにいることを何度も確認しなければならない。それがパターン化されると、例え適切なタイミングで映されなくとも「きっとこの出来事をカールは部屋の端から見ている」と勝手に空想のショットを加える。カールの眼差しに果たして何の想いがこもっているのか、そこまでは明かされない。思い返せばこの作品は外を眺めるカールから始めるのだ。オゾンはカールを主従関係の後者に置くだけではなく、そこから独立した、紛うことなき存在証明を行った。映画は視線に依拠していると思わざるを得ない経験である。

 オゾン版はファスビンダーが散りばめた人物と設定を合理的につなぎ合わせて翻案したものである。とはいえ、主演のドゥニ・メノーシェにファスビンダー本人が宿ったのではないか!と思わずにはいれない立ち振る舞いに本作の全てが詰まっている。

“映画監督”のピーターは、今回起こった自己破滅の出来事さえもいつか作品の題材として名誉と権威を維持し、そして独りには広すぎるアパルトマンの壁に貼られたあらゆる過去に頬を擦り付け、投影された虚像のアミールに涙を流し続けるのだ。

・『苦い涙』公式サイト: http://www.cetera.co.jp/nigainamida/

・オリジナル版『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』は新宿武蔵野館にて期間限定上映中:https://shinjuku.musashino-k.jp/news/32382/

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