名作・朝ドラ『らんまん』総評:万太郎×寿恵子の冒険・三つの鍵とは?
掬-kikusuku-では、朝ドラ『らんまん』放送時に週刊レビューを掲載。今回は本作の総評を「三つのキーワード」に沿ってお届けします。
「これは、何という名前の草花だろう」
歩き慣れた道にも、四季折々の植物が生きている。今まで気が付かなかったような小さな花から、何となく見過ごしていた草木まで。その一つ一つに「名前」があることを、これほどまでに愛おしく思うようになったのは、ひとえに槙野万太郎の人生を観続けたからに他ならぬだろう。
NHK朝の連続テレビ小説『らんまん』は、植物学者・槙野万太郎(演:神木隆之介)の生涯=冒険を描いた物語だった。その旅路を、三つのポイントから振り返ってみたい。
「金色の道」を進み続けて
まず一つ目に取り上げるのは、物語の序章にて登場したこの台詞である。
「心が震える先に金色の道がある。その道を歩いていったらええ」(池田蘭光)
第2週「キンセイラン」より
この言葉は、第2週「キンセイラン」にて、学問所「名教館」の学頭・池田蘭光(演:寺脇康文)から万太郎へ贈られたものである。万太郎の行く先を照らすようなこの教えは、万太郎の生涯を導くような指針となっていったのではないだろうか。
万太郎の心が震える先、それはまだ出会ったことのない植物たちが名付けを待つ場所であり、寿恵子(演:浜辺美波)に出会った喜びでもあるだろう。
しかし、心が震える方を選び続けることは決して簡単なことではない。万太郎の「金色の道」もまた、多くの苦難と共にあった。借金が嵩む一方の貧乏暮らしは長く続き、大学への出入りが禁じられた時期もあった。更には、図鑑の完成を目前にし、関東大震災によって多くの植物標本を失った。
心が折れてもおかしくないような状況に何度ぶつかっても、その夢を諦めることはなかった万太郎。彼を植物図鑑完成へと駆り立てたものは何だったのだろうか。
「何かを選ぶことは、何かを捨てることじゃ」(タキ)
第5週「キツネノカミソリ」より
第5週「キツネノカミソリ」にて、早川逸馬(演:宮野真守)たちを残し釈放された万太郎に、祖母・タキ(演:松坂慶子)はこのような声かけをする。万太郎は、自分の選択の陰に、沢山の「捨てた」ものがあることを知っている。例えば、峰屋の人々が自分にかけていた期待。田邊専属のプラントハンターになる選択肢。お金のない時代を支え続けてくれた家族の苦労。万太郎は、自分が選び、自分が捨てたものの重たさを背負って金色の道を歩いてきたのだ。
いつしか万太郎にとって、心が震える先を選ぶことは、彼一人だけの夢では無くなっていた。植物図鑑完成へ向けて金色の道を進むことが、万太郎に力添えしてくれた人々や植物たち、そして、これまで捨てることとなった全てのものへの恩返しになるから。
同じように、寿恵子もまた、高藤(演:伊礼彼方)との安定した生活を捨て、万太郎と共に歩むことを選んだ。それが寿恵子の心震える「大冒険」だったからだ。万太郎と寿恵子は、日本中の植物をまとめた図鑑の発刊を夢見て自分の心震える先に進み続けて行った。それは、未開の地を開拓するようなものだったかもしれない。万太郎が山々へと植物採集に入っていくように、寿恵子が渋谷の地を自らの足で歩いて観察したように。自分の心に従い、道なき道を歩み続けたその足跡こそが、自分だけの「金色の道」となるのだろう。
「ここにある全てが、証じゃ」(竹雄)
第24週「ツチトリモチ」より
「名付ける」という仕事
「雑草ゆう草はないき。必ず名がある!」(万太郎)
第6週「ドクダミ」より
二つ目に取り上げるのは『らんまん』を代表するこの名台詞だ。万太郎は「どんな草花にも名前があり、そこに生きている理由がある」のだと信じ、生涯「植物分類学」を探究することを貫いた。未だその名を明かされずとも、そこで生きている命のために。
この「雑草という草はない」という万太郎の言葉は大きな話題を呼んだ。草花も人も、全ての命が「ここに生きる理由」を持つことを高らかに宣言するこの言葉は、時代を超えて、現代を生きる私たちの胸を深く打つものだろう。
そして何より、この『らんまん』というドラマこそ、この言葉を体現していたのではないだろうか。万太郎の人生も、彼が出会った人々の人生も、彼が出会った草花たちも、等しくそれぞれの命を懸命に生きている姿が描かれていたからだ。十徳長屋を思い浮かべるだけでも、住民たちの生き生きとした姿が思い出されるだろう。例えば、まさに「雑草という草はない」という言葉に励まされて働き口を見つけた倉木(演:大東駿介)や、落第生から文豪へと自分の「金色の道」を進んで行った丈之助(演:山脇辰哉)……。もちろん、長屋だけでなく、波多野(演:前原滉)や藤丸(演:前原瑞樹)をはじめとした東大の植物学教室の面々や、分家の三人衆も印象深い峰屋の人々など、一人一人の顔や「名前」が愛おしく思い出されるのは筆者だけではないはずだ(本当は全員について記述したいほどであるが、断腸の思いで省略する)。
万太郎や寿恵子と同じように、『らんまん』の世界を生きる一人ひとり、それぞれの生があり、自分なりの「金色の道」を模索して生きている。同じように、植物たちもまた一つとして同じ植物はなく、それぞれが「名前」を持っているのだ。万太郎が、植物と出会い、その名を付けるという仕事を続けたことは、彼が全ての命を慈しんだことの表れではないだろうか。
万太郎が初めて植物の名を知りたいと願ったのは、幼き頃に母・ヒサ(演:広末涼子)を亡くした際のことだった。母との思い出の花の名「バイカオウレン」を知ったその日から、万太郎にとって「名前を知る」とは、自分と相手を繋ぐことと等しいものになったのだろう。人も植物も変わらない、対等な命に向き合い、生きていく者として。
「継承」していくこと
最後に取り上げるのは「継承」というキーワードである。
最終週で視聴者をあっと驚かせた仕掛けと言えば、語りを務める宮崎あおいが紀子役で登場し、また祖母・タキ役の松坂慶子が万太郎の娘・千鶴役で再登場したことだろう。二人は万太郎の死後、標本を整理する作業を担っていた。
万太郎と寿恵子の生涯だけでなく、その先を描いた最終週は、まさに「継承」をテーマにしたものと言える。そもそも、図鑑とは「後の世に残していく」ためのものではないだろうか。実際、第24週「ツチトリモチ」では、戦争の影響を受けて神社合祀令が出され、森林が伐採されることによって絶滅する植物たちの存在を記録に残そうと奮闘する万太郎の姿が描かれていた。
また、最終週に限らず、「継承」というモチーフは物語の随所で描かれていただろう。例えば、万太郎が生まれ育った峰屋は老舗の酒蔵であり、そこで造られていた酒も永きに渡って受け継がれてきたものだ。また、寿恵子のバイブル『里見八犬伝』も江戸時代に書かれ、寿恵子が父から引き継いだものである。また、東大の植物学教室はその歴史を紡ぎ始め、田邊(演:要潤)の尽力により集められた蔵書や標本が今日の研究の礎となっている。
そして、万太郎たちによって名付けられた植物の「名前」が、今を生きる私たちがその草花の存在を認識し、愛しむための大切な要素として輝いている。私たちは植物図鑑を見て、『らんまん』を見て、植物について知ることができるのだ。
万太郎と寿恵子が完成させた植物図鑑は、二人が生きた証そのものだろう。
あらゆる命には限りがあり、人はいつか亡くなるし、絶滅してしまう植物もある。寿恵子は万太郎を残して先にこの世を去るが、寿恵子の生きた足跡は、練馬の邸宅に、渋谷の「山桃」に、子どもたちに、「スエコザサ」に残されている。他にも、バイカオウレンが万太郎と母を繋いだように、ヤマザクラが接ぎ木されて新しい命の一部となっていくように、日本古来のノジギクから様々な菊が生まれたように、命は「継承」されていく。
それは、波多野と野宮(演:亀田佳明)の研究のように、肉眼では見えなくとも、植物の生命活動に欠かせない存在があることと同じではないだろうか。私たちの生は、数多の見えないものによって支えられているのだ。例え見ることができずとも、私たちはその名を呼ぶことができる。絶滅してしまった草花も、その名前や絵、標本は枯れることなく受け継がれていく。名前とは、その命が生きた証そのものだ。植物が進化を続けるように、先人たちが歩んできたそれぞれの「金色の道」の先に、私たちが生きる現在がある。
万太郎が歩んだ金色の道。
そこには植物と人々が「らんまん」に咲き誇り、その道は今を生きる私たちにも繋がっている。万太郎や寿恵子が前の世代から受け取り、千鶴や紀子によって継承され、そして現在へと繋がれたバトンを、私たちはどう繋いでいくのだろうか。
その答えを知っているのは、この心である。己の心が震える先にこそ、私だけの金色の道が開かれているのだから。
その道はきっと、らんまんに輝いているだろう。
kikusuku編集長のひなたです。演劇とテレビドラマと甘いものと寝ることが好き。立教大学大学院 現代心理学研究科・映像身体学専攻・博士前期課程修了。