「かたちを持たない私と、」<終>
#4「いない」と、ともに
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kikusuku編集長のひなたです。演劇とテレビドラマと甘いものと寝ることが好き。立教大学大学院 現代心理学研究科・映像身体学専攻・博士前期課程修了。
「ここにいない人と踊ってみませんか」
とあるワークショップ。
ふいに私の前に投げかけられたその言葉は、驚くほどすんなりと私の身体の内に入ってきた。
ここにいない人と踊る。
そんなこと、本当にできるのだろうか?
***
私が「ここにいない人」と聞いてすぐに思い浮かべたのは、死者の存在だった。もちろん、生きていても「ここ」にいない人、遠く離れた人はたくさんいるけれど、なんとなく、もうこの世にいない人のことが頭をよぎったのである。
時々、考える。かれこれ数年間会っていなくて特に連絡も取っていないような相手と、亡くなった人、そこに大差はないんじゃないか。
時々、不思議に思う。生きていた時よりも、亡くなってからの方が「あなた」のことを想う瞬間が増えたのは何故だろう。
時々、思ってしまう。もう二度と会うこともないであろう知り合いよりも、折に触れて思い出す亡き人の方が余程生きているようなものじゃないか?……私の世界の中では。
時々、安心する。あなたと一緒に過ごしたどの時間より、あなたの存在を近くに感じることがあるんだよ。
ずっと、ずっと感じている。私は、ここにいない「あなた」と、もうこの世にいない「あなた」と、ともに生きている。
「死」とは一体なんだろう。
身体の機能が停止すること?
瞳孔が動かなくなって、心肺停止状態になって、「○○時○○分……」なんてお医者さんが言うシーンは医療ドラマの鉄板だけれど、それはあくまで「医学的に定められた死」であって「死ぬ」ということにはもっとたくさんの何かが付随しているような気がする。
もう二度とおしゃべりできないということ。
もう二度とその笑顔を見られないということ。
もう二度と並んで歩けないということ。
もう二度と、その身体を抱きしめられないということ。
これから、ともに未来を生きることができないということ。
でも、私の中にいる「あなた」はずっと生き続ける。
ご飯屋さんでメニューを開いた時、あなたならこれを頼むだろうなと考える。あなたの職場の近くを通った時、前に聞いた仕事の話を思い出す。一人で泣いている時、あなただったらどんな言葉をかけてくれただろうと思う。あなたの誕生日に、二人分のケーキを買ってくる。「見守っててね」とか「行ってきます」とか、心の中であなたへ話しかける。
もう会えなくても、ここにいない「あなた」と、私はともに生きている。
それは、私が「あなた」を憶えているから。これまでも、そしてこれからも「あなた」とともに生きていて、それを私は憶えている。私の身体が、心が、憶えている。
だから、あなたの身体がもうここにはないということ、あなたの身体は、私を憶えていないのかもしれないということ、
私はそれが、寂しくて、悲しい。
***
私は、一体何と、誰と「ともに」生きているだろうか。
私は、本当にたくさんの物や人たちとともに生きている。
例えばそれは、ここにいない人たち。
もう目を見て話して笑いあうことは叶わないあなたも、かつて毎日通学路を一緒に歩いたあなたも、1ヶ月前お酒を酌み交わしたあなたも、さっき「またね」と手を振り別れたあなたも。
あなたと「ともに」過ごした時間が、私に流れているから。
例えばそれは、見えないものたち。
それは私が寄りかかってきた「役割」たちで「作品」たちで「依存先」で。その経験で、その記憶だ。
私は、ここに「いない」たくさんの人やものと、
ともに生きている。
だから、今目の前に「いる」あなたと同じ時間を過ごしていること、「ともに今を」生きていること、この瞬間を本当に尊く愛おしく思うのだ。
もしかしたら人生は、目の前の「あなた」を観客として、ここにいない人と踊り続けるようなものなのかもしれない。
あなたは、何と「ともに」生きていますか?
あなたの言葉を、私は今日も待っている。そんな今日をあなたと、ともに生きている。
「かたちを持たない私と、」<終>
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