「かたちを持たない私と、」#2
#2「何と、ともに」
#1はこちら↓
kikusuku編集長のひなたです。演劇とテレビドラマと甘いものと寝ることが好き。立教大学大学院 現代心理学研究科・映像身体学専攻・博士前期課程修了。
朝、ベッドの上。
ああ、身体が重い。頭も痛い。
スマホのアラームが鳴るのはもう3回目くらいだろうか。
……今日こそは早起きしようと思ったのに。
私は手探りでスマホを見つけ出して、残りのアラームを全てオフにした。
***
予定がない日の朝は、だいたいこんな感じだ。
起きよう、起きたいと繰り返し思って、気が付けば午前中はとうに終わりを迎えている。
抜け殻みたいになって、動かなくて、これじゃまるでおふとんの一部。
いいな、おふとんの一部。おふとんの一部になりたい。あ、もうなってるか。
普段の私はベッドから起き上がることも億劫になるほど無気力で、人というより「物」っぽい。
私は何かと「ともに生きる」ことで初めて「人」になれる。
例えば、演劇。
私は、演劇とともに生きている。
演劇をつくるためなら早起きもできるし、頭の中はジェットコースターみたいに色々な考えが駆け抜けていく。演劇を観るためにバイトも頑張れるし、「演劇をつくるにも観るにも身体が資本よね」と、体調管理にも気合が入る。
「なんで1日は24時間なの?」と思ってしまうほどのフル稼働っぷりだ。
思い返せば、昔から何かに夢中になることで私は私を保ってきた。
テレビドラマ、吹奏楽、学校の係活動、推し活……
何かと「ともに生きる」ということは、何かに「依存」するということかもしれない。
夢中になる、熱中していると言えば聞こえは良いけれど、私はずっと「私」を忘れることで生きてきたのだと思う。
最初は、テレビドラマの世界。
初めてドラマにドはまりしたのは小3の頃。
「ブラッディ・マンデイ」というテロを描いたドラマで(小3がハマるものじゃないのだけれど)裏切り裏切られのハラハラ展開に夢中になった。
毎日毎日口を開けば「誰が怪しい」だとか「続きがこうなったらどうしよう」だとか、親が聞き飽きてしまうほどうるさかったらしい。
歳を重ねていく中で、部活や係活動に熱中した時もあった。
「誰々が真面目にやってくれない」とか「先生のこういう所がおかしい」とか、よく愚痴っていたのを覚えている。
当時はそれなりに大変で、もちろん「楽しい」だけではなかったけれど、今の私には直視できないような眩しさを持っていたような気もする。
高校生の時は、苦しい現実から逃げるように「推し」にハマっていった。
推しはとある俳優さん。
推しの出ている作品を何度も何度も繰り返し観た。推しのことを考えている時、推しの話をしている時だけは、幸せを感じられた。
本当に苦しい時期を支えてもらったこと、今も心から感謝している。
物語の世界に没入する時、そこに現実の世界は存在しないし「私」もいない。
部活、係活動、そして演劇は、私に「役割」をくれる。そこにいるのは「打楽器担当の私」で「図書委員の私」で「演出担当の私」だ。
ふと、我に返る時。
それはベッドに寝転がっている時で、おふとんの一部と化している時で、
珍しく夕方に帰宅して、なんとなく時間を持て余してしまうようなあの時で、
私が「私」でしかない時。
途端に、自分が空っぽに思えてくる。
「私」なんて本当は存在しないんじゃないか、なんで私は生きているんだ、何もしたくないなあ、お風呂めんどくさ、なんで世の中の人々は毎日起きて働いて勉強してご飯作って食べて片づけて全部全部こなせるんだ、生きてて苦しいって思うことないのかな私には何にもないな、ああ、つら、
私は「何か」とともに生きることで、人間をやっていける。
何かに依存しながら、今日も生きている。
「依存」という言葉は何故だかマイナスなイメージがあるけれど、人は皆、何かに依存しながら生きているのだと思う。
「家族のために仕事を頑張る」
「仕事にやりがいを感じていて毎日忙しい」
「恋人のヒモをして暮らしてます」
「趣味が楽しくて時間が足りないくらい」
私たちは皆何かと「ともに生きて」いて、何かに依存しながら、日々をどうにかやり過ごしたり、毎日をハッピーに過ごしたりしている。
人によって依存の度合いが違うだけ。
依存先が一つに絞られてしまったり、偏ってしまったりすると不健全な依存になってしまうこともあるかもしれない。
だからこそ、依存はすればするほどいい。ただし、いくつかの依存先に。
最近の私は、演劇、哲学、そしてkikusukuと、たくさんの依存先とともに生きている。
「私」の中身が空っぽならば、たくさんの大切なもので満たせばいい。
何かと「ともに生きる」ことでしか生きていられないのは、きっと私だけじゃないはずだ。
#3へつづく
<#3「記憶と、ともに」は11月22日(火)公開予定です。>