鹿の子の「はじめに」
「今日から私は、鹿の子としても生きていけるんだ」
そう初めて思った日のことを、ぼんやりと覚えています。
昔から気に入ったあだ名がありませんでした。
人生で一番最初に友達の間で定着したあだ名は、小学生の時の「100万ボルト」。
毎年、クラスメイトの中で誰よりも早く、椅子に触った時に静電気に見舞われていたのが由来。私が椅子に触ったときの電撃音が、いつもクラスに冬の訪れを告げていました。嘘みたいですね。なんで嘘じゃないのか自分が一番ピンと来ていません。
そこから紆余曲折あってイマイチなあだ名が尽きたころから「しかの」と呼ばれるようになりました。
私の本当の名前は「鹿野結子(しかのゆいこ)」と言います。
「鹿野」という苗字がそこまで多くないからか、それとも私にあまり「結子」感がなかったからなのか、ほとんど名字で呼ばれ続けてきました。そしてその呼ばれ方が、私は結構好きなのです。
「人と人を結ぶ子になるように」という由来で付けられた「結子」という名前は、昔から私の中で結構大切な存在でした。ポリシーというかコンパスというか、とにかく重要な核みたいなもの。
だからみんなに呼ばれて、みんなのものにならなくてもいい。自分の胸に大切に抱えていたい名前です。
逆に言えば「しかの」は、私にとって対外的なアイコンのような名前。
鹿という動物のどことなくマイペースそうで、それでいてひとりぼっちになった時に案外神経質そうなイメージには、どこかシンパシーを感じるものがあります。
とはいえ漢字で書くとちょっと億劫だし難儀そうだし……という理由で、私自身も周りもよくひらがなで「しかの」と呼んだり書いたりしてくれています。
このように、生まれつきの本名に一定の思い入れのある私ですが、表現をやる時だけはこの名前を名乗るのにどこか違和感を感じてきました。
これまでに
「踊る」
「絵を描く」
「バンドで歌ってギターを弾く」
「文章を書く」
「写真を撮る」
「動画を作る」
等々に手を出しまくり、安住の地となる表現を探してきたのですが、自分の表現を小脇に抱えて人前に出る時には、いつも名乗る必要があります。
そんな時に口にする本名はなんというか、あまりにも自分に近く、鮮明すぎるのです。
もうちょっとキャラクター的に、ドット絵みたいに、ポップに解像度を落とした名前はないものかと漠然と思っていました。
そこで思い切って自分に第三の名前をつけてしまった、それが鹿の子です。
大学入学とともに映像身体学科の中に身を置いたことで、私は表現に真正面から向き合える環境と巡り合うことが出来ました。そんな時をずっと待ち望んでいたんです。
それなのにしばらくの間なにかと言い訳をして、表現と目を合わせることを避けてしまいました。
「課題がある」
とか
「バイトがある」
とか言ってどうでもいい予定をたくさん入れておきながら、
「あ~本当は表現がしたいのに技術がない」
「時間がない」
「機会がない」
と文句を垂れる。
本当は、未熟ながらもアウトプットを絶やさない周りの表現者に圧倒されて、べそをかいてビビっていただけでした。
そんな自分をどこまでも恥じて、戒めのようにつけた名前。
私は鹿野結子であり、しかのであり、結子であり、「今日からは鹿の子でもある」。
この名を持っている限り、自分のやりたいことから逃げてはいけない。楽しいことに手を抜かない。恥をかいても傷ついても逃げないと決めた日こそが、私が鹿の子になった日でした。
名前をつけるということは、その存在を認めるということであり、この世界の見えないところを満たす名前のない有象無象からその存在を切り離して、自立させるということなんだと思います。
自分の足で立ってしまったからには、生まれてしまったからには、その生を全うしてやる他ない。
そんな気持ちで今日も、私の中にいくつかの自分が息づいて、その内のひとりがこうして筆を執っています。
「はじめまして!」。