映像身体学が唱える「第三の目」ならぬ「第三の知覚」って!?ひとことテツガク第3回 

この記事を書いたのは・・・

ひなた

kikusuku編集長のひなたです。演劇とテレビドラマと甘いものと寝ることが好き。立教大学大学院 現代心理学研究科・映像身体学専攻・博士前期課程修了。

こんにちは、ひなたです。
前回まで2回にわたって<知覚>シリーズをお届けしてきましたが、今回はいよいよ最終回!
前回までの内容を振り返りながら、映像身体学の提唱する「第三の知覚」について見ていきます!

これまでの内容はこちら!

私たちは、この世界の真の姿を知らない!?ひとことテツガク第1回<身体による知覚>

【ひとことテツガク】とは、哲学の「ひとこと」を紹介し、分かりやすく紹介するという企画。記念すべき1回目のキーワードは<身体>です。

機械は精密で無関心な知覚を持っている!?ひとことテツガク第2回<機械による知覚>

「写真映りがいい/悪い」なんて言うこともありますが、カメラに映った姿は、私たちが直接見ているものと何か違うなあと感じたこと、ありませんか?もしかしたら、カメラ…

「第三の知覚」なんて言うと「第三の目」みたいな得体の知れなさを感じますが、怪しいものではないのでご安心ください(^^;
それでは、早速見ていきましょう!

<身体による知覚>と<機械による知覚>

まずは、前回までの内容を振り返っていきましょう。

私たちが目の前の風景を見て、音を聞いて、物に触れて……
この世界を捉えていることを<知覚>と言いました。私たちは、私たちが行動するために必要なものを選び取って知覚をしています。

例えば、あなたが自分の部屋でスマホゲームをしているとします。この時、部屋の床に落ちている髪の毛なんて目に入ってきませんよね。 では、そのスマホゲームにドはまりしているA君と、初めてそのゲームをやってみるお母さんがいたらどうでしょうか。二人は同じ画面を見ていても、その画面の「見え方」は変わると思います。この時、A君の知覚している世界とお母さんの知覚している世界は、似て非なるものと言えるのではないでしょうか?

一方、カメラを通した<機械による知覚>は、レンズに映る全ての物を平等に映します。東京タワーの前で撮られた写真があるとしましょう。その写真は、東京タワーだけでなく、たまたまそこにいた通行人や光の反射、東京タワーの奥にある建物、標識、その全てを「ただ」映していますよね。もし東京旅行に来たBさんが東京タワーを目の前にしたとしたら、まず東京タワーに目を奪われるでしょう。視界には入っているはずの通行人や奥の建物は、「見えていない」のと同じ状態です。

A君はA君ならではの知覚を、お母さんはお母さんならではの知覚を、BさんはBさんならではの知覚を、カメラはカメラならではの知覚を持っています。

いよいよ「第三の知覚」の正体に迫る!

ではここで、<身体による知覚>と<機械による知覚>を重ね合わせていきたいと思います!

重ね合わせる?どういうことでしょう?

簡単です。【カメラのレンズを覗きこむ】だけ!もしくは、【カメラで撮った写真を見る】のでもいいでしょう。カメラの眼に、私たちの眼を重ね合わせてみる。 これが、映像身体学の唱える「第三の知覚」の正体です。一体どういうことなのか、詳しく見ていきましょう!

機械映像が示す視覚像の本性は、私たちのうちに沈殿し、堆積するこの〈視覚の無意識〉と結びつき、一致して共鳴し合い、ついに区別し得ないただひとつのものになる。(前田・江川 2016: 6-7)

前田英樹・江川隆男(2016)『何を〈映像身体学〉と呼ぶのか』「立教映像身体学研究」 No.4。

何やら難しいことが書かれていますね……。ここで〈視覚の無意識〉という言葉に注目してみましょう!〈視覚の無意識〉とは一体何のことでしょうか?

ここまでの<知覚>シリーズを読んでくれたあなたなら、なんとなく見当がつくかもしれませんね。〈視覚の無意識〉という語が指すのは、私たちの眼には映っているのに「見えていない」ものたちのことではないでしょうか。

私たちは、カメラのレンズを覗き込むことや撮影された写真を見ることによって、初めて「人間には知覚できない世界」を肉眼で見ることができます。
もし、カメラのない時代を生きていたとしたらどうでしょう。私たちは「自分の眼を通した世界」しか見ることができないですよね。自分が知覚している以外に、どのように世界を見ることができるのか、私たちは知ることができません。
自分の見ている世界とは異なる「世界の見え方」があることを、カメラは私たちに教えてくれるんです。

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Photo by Pixabay on Pexels.com

私たちが、無意識のうちに排除して、見えなくしているもの。
ゲームに夢中になっている時の部屋のホコリ。東京タワーを見上げている時の夜空に浮かぶ雲。

〈視覚の無意識〉たちは、確かにそこに存在しています。その無意識の存在を私たちに教えてくれるのが、カメラを通した<機械による知覚>です。人間だからこそ知覚できる世界と、機械だからこそ知覚できる世界。その二つが結び付き、共鳴し合った時、私たちは初めて〈視覚の無意識〉の存在に気が付くし、その瞬間「第三の知覚」が生まれています。

つまり「第三の知覚」とは、カメラが映した世界(=写真や映像)を私たち人間が見ることによって、身体の知覚だけでは気が付くことのなかった〈視覚の無意識〉に触れる知覚のことを指しているんです。「第三の知覚」は、この世界が、私たちの知らない側面に溢れているということを教えてくれます

私たちにはまだまだ知らないことがたくさんある。知らない分だけ、きっと新しい発見に出会える。この世界は、新しい出会いの可能性に満ちている!

そう思うと、なんだかわくわくしませんか?

おわりに

3回にわたってお届けしてきた<知覚>シリーズ、いかがでしたか?
映像身体学では「身体による知覚」「機械による知覚」そして「第三の知覚」を通して、この世界の奥深くに潜っていこうという試みがなされています。
「知覚」とはどのようなものなのか、ひいては「映像身体学」とは何であるか、私自身、探究している真っ最中です。これからもずっと考え続けていく問いになるでしょう。
このkikusukuという場所の根幹に、このような学問があるのだということを知っていてもらえたら、本当に嬉しく思います!

次回は新しいテーマについて取り上げていきますよ。どうぞお楽しみに!

引用:前田英樹・江川隆男(2016)『何を〈映像身体学〉と呼ぶのか』「立教映像身体学研究」 No.4。

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