『14歳の栞』から考えるドキュメンタリー映画のあり方
この前『14歳の栞』
という作品を見にいった。
この作品はドキュメンタリー映画である。
公式サイトより本作を紹介する。
(とある中学校の3学期、
「2年6組」35人全員に密着し、
ひとりひとりの物語を紐解いていく。
そこには、劇的な主人公もいなければ、
大きなどんでん返しもありません。
中略
これは、私たちが一度立ち止まり、
いつでもあの頃の気持ちに立ち返るための
「栞」をはさむ映画です。)
この作品の特異な点は一般人である35名の中学生全員が、本名を公開した上で登場していることだ。彼らの人生はまだ今も続いている。
従って彼らのプライバシー保護の観点から本作のソフト化は予定されておらず、
劇場でしか見ることができない。
私はソフト化という収益の道を絶ってまでも描きたかった本作のリアルに惹かれた。
そして運良く2022年10月16日に渋谷シネクイントにて鑑賞する機会に恵まれたので、鑑賞してきた。
上映終了後私は思った。
これほどまでに強く自分の心を揺さぶるようなドキュメンタリー映画ははじめてだ、と。
「ああーこういうのわかる」という共感。
「こんな瞬間見ていいのか?」という好奇心。
「この人苦手だな」
「この人好きだな」
「こんなクラスに行きたかったな」
「こんなクラス苦手だな」
好きと嫌いが行ったり来たりをして
色々がぐちゃぐちゃになった。
それほどまでに強く一つ一つの映像が刺さったのだろう。本作は間違いなく自分の心を動かすという意味では今までにないほど効果的なドキュメンタリー映画だった。
しかし今回私が考えてみたいのは、この効果は本当にホントなのかということだ。もっと言うと、
この作品はドキュメンタリー映画なのかということだ。
少し複雑な話になる気がする。
自分も頭が混乱しないようなるべく丁寧に書こうと思っているので、
もし良ければお付き合いいただきたい。
(なおこの記事では一部ネタバレ要素を含む記述がある。その際は一度こちら側でネタバレ要素があると警告をしつつ進行していこうと思う。)
この映画がドキュメンタリー映画なのかそうではないのか。検証方法は至ってシンプルだ。
この作品がドキュメンタリー映画だと強く感じる意見、
逆にそうではないと強く感じる意見を、頭の中でぶつけてみる。するとどちらがより強いかがはっきりするはずだ。
まずドキュメンタリー映画だと強く感じる点は、
本作が広く一般公開できないほどに匿名性が皆無であることだ。
本作ではクラス35人の本名が丁寧にテロップ付きで表示される。
そして彼ら一人一人の紹介に移る。
この匿名性に正面から対抗する構成はこの作品のリアリティーに圧倒的な強さを与えている。匿名性の否定はドキュメンタリー映画の核であると以前大学の講義で解説された。
自身でも映画を制作する教授の言葉には説得力があった。
彼はドキュメンタリー映画とそうでない映画の違いは何かと、私たち学生に尋ねた。
「カメラの存在を登場人物が認識しているかどうか」
「画質が荒かったり、照明がなかったり、ちゃんとした機材で撮影してないのがドキュメンタリー映画である」
確かにと自分自身思ったが、教授はそれだとパラノーマルアクティビティなどのフェイクドキュメンタリーも入ってしまうとすぐさま反例をあげた。
様々な意見が出たがどれも教授を満足させる回答ではなかった。
やがて教授は自ら答えを発表した。
「その映画によって現実世界にいる誰かの人生に影響があるか、そうでないか」
それが教授の考えるドキュメンタリー映画の核だった。
本来映画の中に登場する人物は、基本的にお金をもらって、
その作品の中に必要なキャラクターを演じる。
そういった前提があるから、
私たちは役者個人とキャラクターを結びつけたりはしない。
たとえば映画の中で悪役が出てきたとしてもそれを演じている役者個人を悪だとは思わない。
しかし、ドキュメンタリー映画の場合、この個人とキャラクターが完全に一致した状態になる。
だからこそ、その人の人生はドキュメンタリー映画に出演したことによって確実に変化してしまうのである。
この人はこんなにもいい人だったんだ。あるいはこんなにも悪い人だったんだ。
その人に対する直接的な評価に結びついていってしまうのだ。
事実自分もこの作品を見て
全ての人を大好きになれたかと言うとそうではなかった。苦手だなと思える人もいたのは事実だ。
そういった文脈では、やはり本作はドキュメンタリー映画と言える。
続いて本作がドキュメンタリー映画ではないと思われる部分について述べていく。
それは映画の編集である。
編集とは元々の映像素材にはない要素を足していくことをいう。
その結果、素材が持つ要素を強化したり、追加したりしていくことが編集の目的である。
例えば泣いている映像に悲しげな音楽を加えると、
映像が持つ悲壮感をより強めることができる。
映像をスローモーションにすると、その映像の動きに注目してみてほしいというメッセージが追加される。
しかし、この編集。
逆に言うと加えれば加えるほどリアルではなくなっていく。
私自身映画を作った際に映像素材が持つ力だけではどうしてもメッセージが伝わらないと判断した場合には、よく音楽の力に頼ることがあった。
主人公の切なさを伝える時にはピアノの静かな音楽を、仲間との高揚感を伝える時にはポップな音楽を編集で追加する。
音楽によってメッセージは強化されていくが、映像の持つ『ありのままのメッセージ』は薄れていく。
そう言う観点からいえば今作はそういった編集に満ち溢れている。以下私が劇中時に強烈だなと感じた編集を2つ述べていく。
(ここから本作のネタバレ要素を含む記述あり。)
①音楽
今回は35人の生徒それぞれにフォーカスするという内容だ。しかし私はある生徒のパート時、
映像によるフォーカスが始まる前にその生徒がどのような人なのかをある程度判断してしまった。具体的には音楽である。
明らかに、ドラえもんでいうジャイアン、ケンカ番長のテーマソングが一番最初に流れたのだ。
私はそういう荒くて乱暴なキャラクターをイメージさせる音楽を先行して聞いたため、その生徒が語るよりも先にその人が乱暴な人なのだと認識してしまった。本来こういったキャラクターの認識方法はフィクショナルな映画でよく使われる手法である。
音楽を先行でかけることで、そのキャラクターがどのような性格を持っているのかを分かりやすくリードするのだ。
ただこの音楽によってキャラクターの性格を強調するという編集方法にはデメリットがある。
それはその音楽によってキャラのイメージが固定される恐れがあるという点だ。
音楽の力は強大である。
楽しげな音楽を掛ければその映像は楽しくなる。
悲しげな音楽を掛ければその映像は悲しくなる。
しかし楽しげな映像に悲しげな音楽を掛けてみるとどうだろう。
映像は楽しそうなのに、音楽によってその楽しさにはどこか嘘があるのではと私達は思ってしまう。
つまり映像の解釈は幾らでも変わる可能性がある。
しかし音楽の場合、観客はほぼ1つのイメージしか抱かない。
そういった強烈な力を持つ音楽をキャラクターの理解に使うとどうなるか。
そのキャラクターは一面的な人間として見られやすくなるのだ。
例えば、今回私たちは音楽によってその生徒はジャイアンのように乱暴だというイメージを強化した。
その結果、その人がどんな行動をしても心のどこかで「でも乱暴な人なんだよな」と一枚の強いフィルターをかけてしまう。
本当はその生徒はあまり乱暴ではないのかもしれない。
むしろ優しいのかもしれない。人は元来複雑な存在であり、
その人がどんな人なのかを知るには究極実際に会って、長い時間をかけるしかない。
この生徒も本当はどのような人なのかは分からないが、作品を見た結果少なくとも乱暴な人なんだなというイメージは確実に残ってしまう。
音楽をその人物のキャラと結びつける。
それは前述したようにフィクショナルな映画でよく見られる手法だ。
それはこの手法にはある種その人間のアイデンティティを固定する効果があるからだ。
人の人格が固定される。
それがドキュメンタリー映画であまり用いられていない理由はわかるだろうか。
それはドキュメンタリー映画の場合映っているキャラクターは本当にこの世界に存在していて、その人間の今後の人生に強い影響を与える恐れがあるからである。本作では良くも悪くもこのような音楽の編集を多く感じた。
②カット編集
映像と映像を繋げる。
そうすることで単一の映像の時にはない文脈が生まれる。
例えば、泣いている映像がある。
その映像だけだとただ泣いているというメッセージにしかならない。
しかしその前にプロポーズされる映像を入れてみる。
すると、その人はプロポーズされて嬉しくて泣いているという文脈が生まれる。
逆に会社からのリストラ宣言をされる映像を入れてみる。その文脈は反転し、悲しくて泣いているというメッセージになる。
またカットの繋がりによる文脈は隣同士のカットだけで起こるものではない。
かなり離れたカットでも成り立つ。
例えば彼女が泣いているカットから始まるシーンがあって、
そのシーン内で彼女が泣いている理由を示すカットは結局流れないまま別のシーンが流れ始める。
そして1時間ほど経ってからなぜ彼女が泣いたかの答え合わせが始まる。
彼女が泣く理由がかなりのカットを経て明かされる。これも立派なカットの文脈である。
こういったカットの文脈はいわゆる伏線と呼ばれる。
この伏線の特徴は映画のフィクション性を強めるということである。
カットとカットの間隔が離れていてもその2つに文脈が生まれた時、それが純粋な偶然であることはほぼない。
例えば、泣いている人がいてその直後にどうして泣いているかの理由が分かることは現実世界でもよくある。
逆にその瞬間なぜ泣いているかの理由が分からなかった場合、その後にわかることはほぼない。
つまり、カットが離れれば離れるほどその文脈は誰か第三者によって計算されて生まれたという間隔が強まっていく。
その文脈を作ったのは物語の先が気になるように仕向けるために作られることが殆どだ。
その為に映画内のキャラクターとは別の、作品の外にいる人間がパソコンを使ってその文脈を演出する。
こういった伏線による編集が見受けられれば見受けられるほどその作品のフィクション性は強まっていく。
今作の場合は数多くの伏線があった。
クラスでただ1人学校に来なくなった人がいるということが台詞で語られる。そしてこの台詞が後々回収されるパートが始まる。
あの子は彼に恋愛感情がある。ということが説明されるカットがある。そしてその恋愛模様が色々な別エピソードの合間合間で語られる。
吹奏楽部の発表会に対する様々な人の想いが語られる。そして物語はしばらくして本番のシーンを迎える。
明らかに伏線が多い。
普通のドキュメンタリー映画では考えられないほど物語のドラマが存在してしまっている。
私はこれらの伏線により作品の興味を失うことなく最後まで見ることができた。しかし同時にこれらの伏線は全て私の興味を持続させるために作られているようにも感じてしまった。
ここまでで本作がドキュメンタリー映画であると思える理由、思えない理由を述べてきた。
それではこの作品はドキュメンタリー映画と言えるのかどうか。
私は2つの側面を比較した上で、本作をドキュメンタリー映画とは言えないのではないかと思った。理由は単純、ドキュメンタリー映画だと思える理由の方が少なかったからである。
純粋に映像だけに心を動かされた瞬間も確かにあった。しかし大部分はやはり編集という後天的な要素によって動かされた部分が多い。この作品はエモーショナルな映画だが、そのエモーショナルさは緻密な編集によって作られている気がするのだ。断っておくが私はこの作品が嫌いなわけではない。むしろ心が動かされたという点では今年見た映画の中でもかなり上位の部類に入る。ただ、ドキュメンタリー映画と言えるかどうかの点においては、そうとは言えないのではないかと思ったのである。
では、フィクション映画とドキュメンタリー映画の境界は結局どこにあるのだろう?
結論、私は映画内にいない第三者の作為性を感じた瞬間がフィクション映画の入り口なのではないかと考える。
どんな作品でも監督によるフィルターは存在する。そのフィルターが無ければ作品に個性はなくなってしまうので、このフィルターは必ず通す必要がある。ただドキュメンタリー映画の場合、それを観客が感じないよう、いかにさりげなく通すかが問題となる気がする。なぜなら、私達は監督の考えというよりかは映されている対象のことを知りたいと思うからだ。それは個人か、集落か、事件か、或いは歴史なのか。いずれにせよ監督自身がカメラの内側に行くことはあまりないので、観客は外側にいる監督より、内側にいるその対象について知りたいと思う。(ジョンムーア監督によるドキュメンタリー映画など例外を除く)
だからこそ、監督の考えが少しでもわかってしまうと、こちらはドキュメンタリー映画というよりもフィクション映画を観ているような感覚になってしまうのだ。
「この音楽をここで入れれば、このシーンは盛り上がる。」
「このカットを後に回せば、伏線として機能して観客の興味は持続する。」
そういった監督の作為を感じてしまうか、自然すぎて気が付かないか。この感覚の違いが、ドキュメンタリー映画なのかそうではないのかを決める指標になる気がする。ただ、この指標はあくまで「感じる」という主観的な判断材料に基づいた指標なので、個人によってばらつきは出ると思う。
今回私は『14歳の栞』を使ってドキュメンタリー映画の境界を探ってみた。その結果『14歳の栞』はドキュメンタリー映画ではないと結論づけたが、あくまでもこれは私の主観的な判断である。
是非皆様にはこの映画を自分の目で見て、ドキュメンタリー映画なのかどうかを判断してほしい。
また、こういった議論以前に本作は人の心を打つ作品であることは間違いない。とにかく一度観てみることをおすすめする。そして見た方は是非感想をコメント欄などに書いて共有して頂けると非常に幸いである。
長文に付き合っていただき、ありがとうございました。
マモルです。作品を見ること、作ることが大好きです。ちょっと気を抜くとすぐに、折り畳み傘に髪の毛がひっこ抜かれてしまいます。気を引き締めて毎日生きてます。生き急ぎ過ぎないように。