新生活の私から、新生活(1)の私へ

昔から倹約が出来ない性分で、いつもくだらない小さな出費を繰り返している。
手元にお金があると使ってしまうのだ。

でもこの3000円、不愛想な半透明の箱にあの時入れたこの3000円だけは、かれこれ1年手元に置いている。
これは私の化石みたいなものだから。



去年の3月、大学卒業を控えた私は、精神的にぐらぐらのぽにょぽにょになっていた。

“もうすぐ会社に入って、そしたらきっと大切なものをいくつか忘れて、今よりももっとつまらない人間になってしまう”

入る会社は納得して選んだはずなのにこんな気持ちが頭を離れず、
それを振り払うように仲間との制作や休日に没頭するようにしていた。

本当にギリギリ学生である3月31日の夜まで、
大好きだった当時のインターン先でお祭り騒ぎをして、
翌日、朝が来ると世界は4月1日で、私は会社員になっていた。

少しでも気分が上がるように作ってもらったスーツに袖を通し、
あたかも「数年前から毎朝乗ってますけど」と言わんばかりの顔をして
ラッシュの電車に身を押し込み、職場に着く。

がむしゃらに仕事を覚えて、
ふっと力が抜けた昼休憩に携帯を見ると、
昨日の夜遅くまで一緒にいたインターン先の人たちからいくつか連絡が来ていた。

一緒にインターン先を卒業した人や、
逆に送り出してくれた人たちからの熱気冷めやらぬ激励メッセージを読むと、
携帯を持っている指の先から私はゆっくり学生に戻っていってしまい、
身体の真ん中までそれが染み込んだ時、
もうどうしていいかわからないくらい悲しくなってしまった。

駄目だ。
まだ何も経験していないのにこんなに悲しくては、
この先何年もこの場所で過ごすことは出来ない。

接客を伴うこの仕事をしていれば、
誰かから心無い言葉を掛けられたり、
思わぬ失敗をしてしまったりする日は必ず来る。

せめて、せめてまだ何も経験していない私から、
そんな最悪を経験してしまった日の私へ、
お疲れ様の一杯でも奢った方がいいくらいだ。

そう思って財布を取り出し、
1000円札を1枚と入っていた小銭を全て自分のデスクの引き出しの隅に隠した。

これは、本当に悲しい日の私のための貯金にしようと思った。



お金をむき出しにするというのも良くないと思い、
それから小さな箱を買ってきてお金を移し、
気が向いた時に追加でいくらか貯めていた。

確かに接客をしていてお客さんからここには書けない罵声を浴びせられた日や、
穿いているパンツの色を訊かれた日
(そんなに面白くもない色だったので「サービスについてのことならお答えします」とお伝えした)、
逆に私のミスでお客さんに大迷惑をかけてしまった日もあって、
そういう日は箱の中の小銭でおやつを買うこともあった。

でもお札はどうしても使えなかった。

もっとしんどい日がいつか来るに違いないと信じていたし、
それまでもう少し頑張らないと、と思っていた
(ちなみに、そのころ書いたのがこれ)。


そんなある日、かつてのインターン先で一緒に大暴れしていた友人と飲んでいるときに
「最近どうなのよ」と訊かれ、

「結構しんどいけど、まあ本当にムリ~!ってなったらいつでも辞めれるようにしておこうと思う」

と答えたら、相手はひとしきり笑った後

「鹿の子がムリな時、もうムリなのは仕事だけじゃなくなってるでしょ、生活とか。」

とあっさり言ってのけた。
今まで無意識に避け続けてきた部分にクリティカルヒット。
本当に、私はそこまで器用な人間ではない。


それから色んなことを経験して、結果的に転職を決意して迎えた最終出勤日の夜。

デスクの中からいろんなものを捨てていく中、
こっそりこの箱だけはリュックに避難させた。
そっと中を開けると、中には3000円が貯まっていた。


本当に歯を食いしばらなければいけない時、何度もこの箱に手を触れた。

大丈夫、数時間経てば必ずこの時間は終わる。
そしたらこのお金を握りしめて、
最寄りの居酒屋で生ビールと好きなつまみでも注文して、
酔っぱらったら帰ってさっさと寝ちゃえばいい。
これは浪費じゃなく、正当な自分への労いなんだと。

その度に私の感情とそこで得た糧が、この箱の底に溜まって結晶になっていくような気がした。

そして最終出勤日の夜になっても、結局この3000円を使うことはなかった。


箱は会社のデスクから私の部屋の机に場所を移し、
今でもPCの裏から私を見守っている。

私自身も今年の1月から新しい生活を送る中で、
本当に生まれ変わったような日常の変化を目まぐるしく経験しているが、
このお金に手を付けずにいるうちは大丈夫だと思えているのだ。


新生活。

楽しい人もいれば不安な人もいて、
どうすればいいか分からない人も当然、いる。

特に学校を出ればもう誰も正解を示してくれない訳で、
それに反して自分の中の声は正しさなどお構いなしにどんどん大きく、クリアになっていく。

その声に丸呑みされないよう脚を踏ん張りつつ、
一足先に「新生活_会社員」から「新生活(1)_今の生活」に飛び乗った人間として、
私も見栄を張らない歩幅で前に進んでいこうと思う。

後から来た人たちが
「意外とこの先も悪くないじゃん」
と思える程度に、過去と今のすべてを糧にして。

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