機械は精密で無関心な知覚を持っている!?ひとことテツガク第2回<機械による知覚>
この記事を書いたのは・・・
kikusuku編集長のひなたです。演劇とテレビドラマと甘いものと寝ることが好き。立教大学大学院 現代心理学研究科・映像身体学専攻・博士前期課程修了。
こんにちは、ひなたです。ひとことテツガク第2回。
前回は<身体による知覚>について取り上げましたが、いかがでしたか?
この世界を、私たちの身体はどうやって捉えているのかについてのお話でしたね。今回は、もう少し<知覚>についての話を続けていこうと思います!
映像身体学では、<身体による知覚>と並んで取り上げられる知覚があります。それが<機械による知覚>です。
「え?機械?機械って知覚するの?」
画面越しにそんな声が聞こえてくるような気がしますが、どうかお付き合いくださいね!
○カメラのレンズにしか映らない世界がある?
(前略)機械による映像は、身体の行動に対して〈潜在的〉なものであり続ける。(前田・江川 2016:5)
前田英樹・江川隆男(2016)『何を〈映像身体学〉と呼ぶのか』「立教映像身体学研究」 No.4。
「機械による映像」とあるように、<機械による知覚>とは、カメラのレンズに映る世界のことを指しています。綺麗な空が写った写真も、運動会で子どもが一生懸命走っている映像も、全てカメラのレンズに映ったものです。
私たちの眼が見たものじゃない、レンズが捉えた世界。
それを、<機械による知覚>という言葉で表しているんです。
「写真映りがいい/悪い」なんて言うこともありますが、カメラに映った姿は、私たちが直接見ているものと何か違うなあと感じたこと、ありませんか?もしかしたら、カメラには、私たち人間とは違う世界が見えているのかもしれない。そう思うと、なんだか少しドキドキしてきますね。
では、私たちの眼で見る世界とカメラが捉える世界は、どんな違いを持っているのでしょうか?まず、こちらの写真をご覧ください。
「突然なんだ?」と思ったかもしれませんね。これは、私が以前京都に行った時撮った金閣の写真です。写真を見た時、あなたは何を見ましたか?
たぶん、まず金閣寺の建物に目がいく人が多いのではないでしょうか。次に、水面に映った金閣を見た人もいれば、空の雲に目がいった人もいるかもしれません。では、この写真を撮ったカメラの眼は、何を見たのでしょうか。
金閣?水面?空?雲?
それだけじゃないですよね。手前に伸びる草も、水に浮かぶ岩も、奥の方に見える山も、金閣を支える柱も、この写真に写る全てを見ています。でもそれは、私たちが「見る」ようなやり方で「見」ているわけではありません。どういうことでしょうか?
〇私たちの見る世界と、カメラの見る世界はどう違う?
では早速イメージしてみましょう!あなたは金閣を実際に観に行きました。カメラを構えたら、ちょうどこの写真が撮れるような位置に立っている。
どうですか、想像できましたか?
その時、あなたはおそらく金閣や水面の様子を「見る」けれど、金閣の奥にある山や、木々たちの微妙な色合いまではきっと見ないでしょう。それどころか思わず金閣に目を奪われ、水面に金閣が映っていることすら気が付かないかもしれませんね。私たちには、水面も、後ろの木々も、手前の草も「見えていない」瞬間があるんです。
では、カメラはどうでしょう。フレームの中に入った全てのものを、カメラは平等に映します。私たちには「気が付かない」「見えていない」ものまで、全てをただ映す。
カメラの見ている世界。それは私たちにとって、そこに在るのに遠く深くに潜っているような世界です。映像身体学では、カメラ(=機械)はこの世界に<潜在>しているものを知覚すると考えています。つまり、私たちの<身体による知覚>では捉えることのできない「世界」を、カメラは知覚しているんです!
〇おわりに
前回、私たち一人ひとりが生きている世界は違うものかもしれない、という話をしましたが、また別の「カメラの捉える世界」なんてものまで現れてしまいました……(^^;
でももし、私たちがカメラと同じ知覚を持っていたとしたら?
きっと、私は今こうしてパソコンの画面だけに集中して文字を打つこともできないし、金閣の美しさに深く感動することもできないでしょう。私には私なりに、あなたにはあなたなりに、カメラにはカメラなりに、その身体や機械に応じた「世界の捉え方」がある。
では、それぞれの見る世界はまるで別のものなのでしょうか?それらの世界は、どう関わり合っているのでしょうか。
あなたは、どう思いますか。どう感じていますか?
というわけで、次回に続きます!<知覚>シリーズ最終回、お見逃しなく!!
【参考】前田英樹・江川隆男(2016)『何を〈映像身体学〉と呼ぶのか』「立教映像身体学研究」 No.4。