あたたかで柔らかな愛 『博士の愛した数式』
『博士の愛した数式』
あらすじ
[ぼくの記憶は80分しかもたない]博士の背広の袖には、そう書かれた古びたメモが留められていた──。
主人公である「私」は、ある初老の男性「博士」の元へ家政婦として派遣される。「博士」とは、交通事故の後遺症で記憶が80分しかもたない元大学教師の数学博士。彼の「私」への第一声は、「君の靴のサイズはいくつかね?」だった。数字で物を語る博士に、初めは戸惑う「私」だが、やがて安らぎを見出していく。ある日、「私」に10歳の息子がいることを知った「博士」は、一人で留守番している息子を、学校が終わったら「博士」の家に向かわせるようにと「私」に告げる。「博士」は、息子の頭がルート記号のように平らだったことから、息子を「ルート」と名付けた。
こうして、「博士」と「私」、そして、「ルート」との、やさしく、穏やかな生活が始まった。
https://www.mpac.jp/event/38370/
終演して、人々が劇場を後にする中、暫くの間、私は立ち上がることができなかった。
胸がいっぱいで、あたたかな気持ちで溢れていて、この心をどうしていいか、立ち上がったらまた涙になってしまうものをなんとか堪えて抱きしめていた。
私がこの作品の原作となった本を初めて読んだのは小学生の時。
小川洋子さんの『博士の愛した数式』は母の好きな作品だ。
昔から母が好きだという作品は私の心に残り続けている。
10歳かそこらの少女には、博士と義姉のどこか妖艶で奇妙な関係性や、小川さんの文体の美しさには到底気付いていたとは思えないのだが、物語に登場する10歳の少年・ルートのような気持ちで読んでいたのだと思う。
とてもあたたかな舞台だった。
舞台上には砂が敷き詰められている。博士の80分しか持たない記憶は、持ち上げた砂が手のひらからこぼれ落ちてしまうよう。
ギターの生演奏とはどういうことなのかと思ったが、納得させられた。クラシックギターの音色は私たちを柔らかく包み込んでくれる。
記憶を失っていく博士、生活を支える家政婦の「私」、そして博士に懐いている「私」の息子・10歳のルートを見て、私は写鏡のように自分の家族のことを考えていた。
私の母方の祖母は認知症だ。
ちょうど私が10歳頃に発症して、私が12歳になる頃に施設に入った。
幼い私には、記憶を失っていく祖母の姿は不思議に映っていた。そして苦しかった。
私たち家族は、あの時誰もが苦しかった。
認知症は進行を遅らせることはできても、未だに治すことはできないのだ。
失った記憶は戻らない。
博士は認知症ではなく、事故による脳の損傷だが、自身の記憶が現実と乖離していることに気づき苦しむ姿に心が痛んだ。
「私」が買い物に出ている間にルートが怪我をしてしまい、必死に「私」に謝っている姿。
観ながら祖母の姿と無意識に重なっていたように思う。
母や叔父が、苦しく大変な思いをしていたことは、私の記憶の中でとても鮮明だ。
それぞれの家族の生活を維持しながら、一人暮らしの祖母がなんとか生活できるように支えなくてはならなかったのだから、相当苦労したことは想像に難くない。
だが、自分の意思に反して記憶が失われていく祖母が一番苦しかっただろう。
10歳そこそこの私は何もしてあげることができなかった。
ルートと博士のように、祖母が忘れてしまってもいいから思い出をたくさん作ればよかった。
祖母は足が悪いので、あまり遠出が出来なかった。私の祖母との記憶は、幼い時に家の中で遊んだものばかり。それも私が祖母を困らせている記憶ばかり出てくる。
祖母が失った記憶、その時間はどんどん長くなっている。
はじめは数分から始まり、1日また1日と伸びていった。
90歳になる祖母だが、話を聞く限り、おそらく現在は30歳頃の記憶で止まっていると思われる。
記憶というのは本当に不思議なものだ。目に見えないのに映像のように頭の中で思い起こすこともできれば、生き物のようにするりと逃げていってしまう。
祖母の記憶には残らないけれど、本当は、一度でも私が舞台に立っている姿を見せたい。
ルートは、手の怪我をしてしまった後、母である「私」に向かって態度が悪くなる。
「私」が博士を信用しなかったことに腹を立てているのだ。
気を遣って話しかける「私」、わざと怪我をした手をテーブルに叩きつけるルート。
私は未だに母に対して、この10歳のルートのような感情表現をしてしまう。
何か気に食わないことがあった時、あからさまに態度に出してしまう。
それを気遣って声をかけて、時に叱って、時に励まして、慰めてくれるのは愛だ。
受け止めてくれることを分かっているから、こちらもそうしてしまうのだ。
母と私は昔から傷つけ合って生きてきた。お互いに似ているのだ、とても。
これからも私たちは予期せずに傷つけてしまったり、傷つけられたりしながら生活していくのだろう。
記憶を失っても変わらないものはある。
博士の口癖はずっと変わらなかった。
この舞台は『星に願いを』から始まる。
子守唄のようでもあり、祈りのようでもあった。
星はずっと私たち人間を見守っている。
博士の記憶と同じ80分。家族という枠を超えた、人間同士の愛の物語を観た。
あたたかで柔らかな愛に包まれ、幸福で、でもどこか寂しい、なんとも形容し難いこの心をどうして抱えて帰ろうか。
今はどうしても涙に変わってしまうけれど、
帰ったら一番に母に愛を伝えよう。
花かケーキを買って帰ろう。
実和
kikusukuライターのミワです。
お芝居と喫茶店が好きな、ハスキーボイスの舞台人。
そこそこのまともさと、たまの異常さを買われて、東のボルゾイという劇団にいます。
岡崎京子さんと吉澤嘉代子さんの描く“特別なおんなの子”になりたい。
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