私たちは、この世界の真の姿を知らない!?ひとことテツガク第1回<身体による知覚>

この記事を書いたのは・・・

ひなた

kikusuku編集長のひなたです。演劇とテレビドラマと甘いものと寝ることが好き。最近はもっぱらドライアイに悩んでいます。立教大学現代心理学研究科・映像身体学専攻所属。

こんにちは、ひなたです。

ひとことテツガク】とは、哲学の「ひとこと」を紹介し、分かりやすく読み解いていくという企画。


「哲学に興味はあるけど、難しくて手が出ない…」というあなたも、

「哲学って小難しそうで嫌だな~」なんてあなたも!

時には、先人たちの考えに触れてみませんか?


哲学は「生きるための学問」であってほしい。

哲学は、今を生きる私たちみんなの力になってくれるような可能性を秘めている!

私はそう思っています。


とは言っても、やっぱり哲学ってムズカシイ……。

そこで、この企画では「哲学→テツガク」と称し【やわらかいテツガク】を目指します!


哲学書に書かれたその一言一言に、読む人の数だけ解釈が生まれます。

私は哲学の専門家ではないし、哲学書をたくさん読んでいるわけでもありません。

でも、目の前に差し出された一言の意味をじっくり考えてみることはできる。




それは今この記事を読んでいるあなたも同じです。

哲学のことはよく分からなくても、考えてみることはできる!


そんなやわらかいテツガクを積み上げていくのが、この【ひとことテツガク】です。

ぜひ、私と一緒に「考えてみる」時間を過ごしていきましょう!

記念すべき1回目のテーマは?キーワードは<身体>

さて、ひとことテツガク、記念すべき第1回に取り上げるのはこちら!

<身体による知覚>

です!

1回目にして、なんだか小難しそうな言葉ですね……。
でも、この言葉は私たちkikusukuメンバーの出身である<映像身体学>には欠かせないワードなんです!

「1回目、一体どんな言葉を紹介しよう?」と迷ったのですが、

kikusukuのはじまりであり、私たち人間が生きていくはじまりでもある

<身体による知覚>から、始めてみようと思います。

<身体による知覚>

「身体による知覚は、特定の身体 が、或る有用な行動を為そうとするときに成り立つ」(前田・江川 2016: 1)。

前田英樹・江川隆男(2016)『何を〈映像身体学〉と呼ぶのか』「立教映像身体学研究」No.4。


まず、<知覚>とは何でしょうか?

視覚、聴覚、嗅覚、触覚……

色々な感覚がありますが、知覚とは、色々な感覚を通して外の世界を捉える働きのことを指します。

つまり、「この世界をどう捉えているのか」を示す語ということですね。

あなたが今この文字を読んでいるのも知覚だし、スマホを手に持つのも、イヤフォンから聞こえてくる音楽を聴くのも、知覚があるからできることなんです。

つまり<身体による知覚>とは、

私たちがこの身体を使って、この世界を捉えていること、そのものです。

この<身体による知覚>の特徴を表しているのが、先ほど紹介したこの言葉です。

「身体による知覚は、特定の身体 が、或る有用な行動を為そうとするときに成り立つ」(前田・江川 2016: 1)。

引用元:同上


「或る有用な行動」って、一体なんでしょうか…?

では、このコーヒーカップを例に取ってみましょう!

カップ下のお皿、ちょっと横長なの?


コーヒーが飲みたいあなたは、このコーヒーカップを手に取りました。

さて、あなたはなぜコーヒーカップを手に取ったのでしょうか?

答えは簡単。もちろん「コーヒーを飲むため」ですよね。

つまり、「コーヒーを飲むために、コップ(入れ物)が必要」だから、コーヒーカップを手に取ったわけです。


ではここに、ハエが迷い込んできたとします。(嫌ですね~><)

このハエはそのコーヒーカップを見て「コーヒーを飲むために必要なもの」だと認識できるでしょうか……?

ハエの画像は苦手な方もいると思うので、ハエたたきのイラストを挟んでみました


答えは、分かりません

私には、ハエの知覚している世界を体感することができないからです。

でも、考えて想像してみることはできます。

もしかすると、ハエにとっては、コーヒーカップも、コーヒーカップを持っているあなたの身体も、その区別はなくて、一つの「障害物」にすぎないかもしれない。

だって、ハエはコーヒーを飲まないし、水分を摂るためにコップを使いません。ハエにとって、コーヒーカップとあなたの体を見分ける必要はないんです!


ハエにとっては、コーヒーカップも人間も窓も「通り道を塞ぐジャマな何か」でしかないかもしれない。そこには、見分けも区別も生まれないかもしれない。

つまり、裏を返せば私たちは「カップを使って飲み物を飲む」ことができるから、コーヒーカップをコーヒーカップだと<知覚>できる、とも考えられますよね。

私たちの身体は、どうやって世界を知覚している?

私たちは、自分の行動に必要なもの(=有用性を持つもの)を選び取って知覚しています

美味しいご飯を食べている時、視界の端に映っている床のカーペットのシミなんて気にも留めないけれど、掃除する時は、それまで気がつかなかった小さなシミも発見してしまう。

私たちは、自分の身体の行動に応じて、見たい世界を見ている。

知覚したい世界を知覚している。

そしてその知覚は、一人一人違うもの。


例えば50m走を 6 秒で走る人と 12 秒で走る人がいるように、私たち一人一人が持っている身体能力は違いますよね。

身体が違えば、行動も、知覚する世界も違う。


そうなると、この<世界>って、一体何でしょうか?

世界は一つ?それとも、人の数だけ、生き物の数だけ、<知覚>の数だけ、世界がある?

混乱してきましたね…
もうそろそろ記事も終わりのはずなのに…

と、分かりやすく解説するはずが、さっそく混乱してきましたね。


あなたはどう思いましたか?

あなたの身体は、この世界をどうやって知覚している?

あなたの知覚する世界と、私の知覚している世界と、
部屋に迷いこんできたハエの知覚している世界は、同じ一つのものだと思いますか?



うーん、やっぱり哲学って難しい!そして、面白い!!!


この【ひとことテツガク】を通して、私と一緒に色々なことを考え続けてくれたら嬉しいです。

次回は、もう少し、この<世界>と<知覚>の話を続けたいと思います。

どうぞお楽しみに!

【参考】
前田英樹・江川隆男(2016)『何を〈映像身体学〉と呼ぶのか』「立教映像身体学研究」No.4。

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