『くしゃみのふつうの大冒険』#09

敗れた怠惰




くしゃみは、その日、何もしたくありませんでした。

特に体調が悪いというわけでも、まだ眠っていたいわけでもありません。ただ、ベッドから起き上がる気がしないのです。

くしゃみは、鼻をかむためのティッシュでさえ、マジックハンドで取りました。

といっても、それを成し遂げるまでには、実に4分半もかかりました。マジックハンドの“ハンド”の部分は、閉じても少し隙間があり、薄いティッシュを完全につかむことができなかったのです。

しかし、確実な方法を考えることもせずに、同じ不合理な方法ばかりをただ繰り返すくしゃみではありません。

くしゃみは、すぐに、マジックハンドで挟んだティッシュを軽くひねって巻き付けると、それを自分の方へ水平にグルンッと動かして戻しました。

結果は、みなさんもご存知の通りです。ティッシュは、無事にくしゃみの鼻水で濡れて、溢れたゴミ箱に押し込まれました。

くしゃみは、これをたった1度で成功させました。4分半もかかったのは、ひとつひとつの動きを念入りに、確実にこなしたからです。決して、失敗などしていません。

くしゃみは、「どうだぁ、見たかぁ!!」と満足そうに高笑いし、「これぞ、遠心力!! 侮るなかれ、遠心力!!」とマジックハンドを掲げました。


さて、そんなくしゃみですが、実は一瞬、本当に本当にわずかな一瞬だけ、マジックハンドの“ハンド”の部分をちろっと舐めて、ティッシュがくっつくようにすることを思いついていました。

しかし、その次の瞬間には、小学生だった頃にいた国語のおばあちゃん先生を思い出して、自分が情けなく思えてきました。

というのも、その国語のおばあちゃん先生には、指を舌で舐めてから教科書のページをめくる癖があり、くしゃみはこれが、嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで大嫌いだったからです。


小学生だった頃のくしゃみが最も憂鬱になったのは、宿題やテストの答案が返却されるときでした。

宿題やテストの答案は、すでに柔らかく重なっているので、返却時に指が舐められることはありませんでした。しかし、だからこそ、幼いくしゃみは、返却物を受け取る度に、自分の知らないところでつけられたおばあちゃん先生の指の唾液が、きっとこの角にも染みているんだろうと恐怖しました。そして、想像なんてしたくもないのに、採点をしながら指を舐めている先生の姿が勝手に頭に浮かんできました。

想像が進むと、色々な可能性が浮かんできます。可能性ほど恐ろしいものはありません。

くしゃみは、いつも、返却物を受け取ると自分の席に戻ってすぐに、紙の上の両角だけを破り捨てていました。

しかし、保護者に向けた手紙や大事な提出物だと、そういうわけにもいきません。先ほどの宿題やテストの用紙も、配布時には同様です。

それに、新しい紙だとしっかり重なってしまっているので、おばあちゃん先生は例の如く、みんなの前で堂々と指を舌で舐めてからクラスに手紙を配りやがります。また、列ごとに人数分の枚数が数えられるので、綺麗な紙を抜き取ることもできません。

唾液が染みていることを知りながらも手紙を連絡袋に折り入れるとき、くしゃみはいつも、込み上げる悔しさと嗚咽で涙が溢れてくるのでした。そして、家に帰るとすぐに、手紙の角には触らないように、とくしゃみママさんに忠告するのでした。


こんなことを思い出して、くしゃみは、マジックハンドを舐めようなんて一瞬でも思いついてしまった自分にガッカリしました。

昔はあんなに嫌っていたのに、あんな大人にはなりたくないと思っていたのに、実行したわけではないにしても、その一歩手前まで来てしまった自分がどうにもこうにも信じられませんでした。

生きものは、こうして老いていくのでしょうか。

幼い頃には、「嫌だな」、「変だな」と感じていた大人の言動も、あたかもこれまで気にしたことなど無かったように、無意識に展開していくようになるのでしょうか。それも、周りの目など気にせずに、それが万人にとっての当たり前でもあるかのように。


くしゃみは、勢いよくベッドから起き上がりました。そして、ゴミで溢れた寝室を一気に掃除し始めました。

なんだか動きたくなったのです。

怠惰に抗いたくなったのです。

カーテンを開けると、陽の光が広がります。

窓を開けると、冷たい空気がやってきます。

部屋に散らかるいらないものは、しっかり細かく分別してから、すっかりすべて捨てました。

幼い頃の自分がいま、美しく生きようとするくしゃみの熱を再びここに呼び醒ましたのです。

こうしてはいられません。くしゃみは、首にマフラーを巻くと、家の外へ飛び出して、誰もいないフカチの森を駆けて駆けて駆け回りました。そして、寒くて静かな森の中に、こんな声を轟かせます。

「きっと、明日も良い天気ぃー!!!!!!」


次の日は、雨でした。

しかし、誰が雨を「悪い天気」だと言ったのでしょう。

その日が質の良い1日になれば、雨だって「良い天気」なのです。


作・絵 池田大空

『くしゃみのふつうの大冒険』
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