「表現」という名の何か
この秋の特集テーマを「表現」にした。
芸術・文化の秋、そして11月は掬-kikusuku-の2周年記念でもあり、更には主催する「映像身体学を実践する」(通称:実践展)という企画展の開催もある為、ストレートなテーマも良いのではないか、という意見が出たからだ。
でも実は、映像身体学という学問の中で「表現」という言葉を扱うのは少々厄介。なぜなら、いわゆる「表現」という言葉から一般的にイメージする意味を、この学問では疑わなければならないから。
その「疑い」について、とてもとても端的に言ってしまうのならば
それは本当に「表現」ですか?
何かの「表象(コピー・再現)」ではないですか?
という問いかけになる。
でも、今はこの問いを掘り下げたいわけではなくて。創ったものが、表現であろうと、例え表現ではない何かであろうと、まずはその一歩手前のことを考えてみたいのだ。それは、
どうして、人は「表現」をしようとするのか?
という問い。
この掬-kikusuku-という場所も、実践展も
「表現」または「表現」に似た形の何か、が集まっている。つまり、その裏には「表現」をしようと試みた人が集っているということ。
私自身も、自分にずっと問い続けている。
どうして、文章を書くの?言葉を綴るの?
どうして写真を撮るの?
どうして演劇を創るの?
どうして「表現を発表する場」をつくるの?
その答えは、年月と共に変わり続けている。いや、ずっと変わらないものもある。
そして、私は勝手に推し測ってもいる。
「どうしてあなたは、表現をしようとするの?」
それは「表現」をしようとする友たちへの問い。 その答えは分からないから、私はきくすくを創って、実践展を企画したのかもしれない。
私の、変わらない気持ち。
一人でも多くの人が「表現」というものに、手を伸ばし続けていて欲しい。創り手でも、受け手でも、どんな形であっても。
だから、環境が変わって、生活が変わって、
あなたが「表現」というものに手を伸ばす理由を失ってほしくなくて、いや、
きっと、本当は「変わらない」のに、変わらずにずっと必要なものなのに、手を伸ばし続ける余裕が無くなってしまう前に、
私から、手を伸ばしたい。
せめて、あなたが懸命に手を伸ばさなくとも、気楽に触れられる距離に居たい。そういう場所を開いていたい。
そんな、私の答え。
でもこれは、答えの内のほんの一部分でしかない。
なぜ「表現」が必要なのか、なぜ「表現」に手を伸ばしていたくて、伸ばし続けていてほしいのか、その答えには届いていないから。
「答え」は、ずっと変わらない。そして変わり続けている。
一緒に、この問いを考えてみませんか。
この掬-kikusuku-という場所、そして『映像身体学を実践する』という場、ここに問いも答えも詰まっていると思っています。
あなたが手を伸ばせば
「表現」がそこで、待っています。
掬-kikusuku-2周年、本当にありがとうございます。
written by...
kikusuku編集長のひなたです。演劇とテレビドラマと甘いものと寝ることが好き。立教大学大学院 現代心理学研究科・映像身体学専攻・博士前期課程修了。