果てしない空洞
1ヶ月とは、果てしない月日だろうか?
“(2月につづく)”
と締めた前回、
確かに書きたい「つづき」があったはずなのに
何を書こうとしていたのか、どうしても思い出せないのだ。
忘れ去られていったものたちへの「寂しさ」を感じながら、今の私が考えている「寂しさ」のことを綴ってみる。
忘れてしまっても、ずっと頭の端っこで「寂しさ」のことは考えていたから。
これから書く内容にも、私が忘れてしまったものたちの欠片が残っていると信じたい。そうでないと、余りに寂しすぎる。

今の私が立てている仮説は、寂しさとは、怒りで、悔しさだということ。
多かれ少なかれ、誰しもが抱える「寂しさ」は、きっと「満たされなさ」と≒で結ぶことができる。
自分の内側を埋めてくれる1ピース、その何かが足りない。そんな感覚を寂しさと呼ぶのではないか。
1ピースという言い方をすると、きっちり切り分けられるようだけれど、そんな単純なものではなくて。私たち一人一人の内側にぽっかり空く空洞の名前を、寂しさと言うのだと思う。
では、なぜその空洞は生まれてしまうのか。決して消えないのか。
私の仮説②。
その空洞の正体は「本来あるはずなのに、なぜかないもの」かもしれない。
本当は埋まっているはずなのに、埋まらない「何か」。その満たされなさ。怒り。悔しさ。虚しさ。それらがごちゃ混ぜになったものを「寂しさ」と呼ぶのではないか。
きっと、全てが満たされている人は「寂しさ」を感じないし、寂しさを感じない人間はいない。生きている限り、寂しさに手を振ることはできない。
というのが、2025年2月時点の持論だ。
人には、どんなに埋めようとしても埋まらない穴があって、その穴を埋めようと必死に動いてみたりもするけれど、
生きている限りきっと、“それ”は埋まりようのない穴なのかもしれない。
私は、そんな空洞こそ愛おしく思うのだ。
(3月につづく)