ラブラブを愛さない

鹿の子

かのこと言います。最近は夢中になって人の写真を撮っています。音楽やチョコミントアイスが好きな人、ぼーっとしてるとなんか考え事をしちゃう人は気が合うかもしれません。そうでない方とも、仲良くなれたらとても嬉しいです。よろしくお願いします。

「長続きしているカップル」や「仲が良いカップル」が一律で「ラブラブ」と形容されるの、何とかならないんだろうか。

なんかもっとあるだろ、その人たちによりけりの状態を表す言葉が。

「ラ。」

とか、

「LOVE……」

とか……

もはや「ラブ」ではない形で長続きしている人たちだっているかもしれない。

そもそも、私たちの築くパートナーシップの行く先は、本当に「愛の深まり」or「破局」の二手しかないのだろうか。

たとえば、私の両親は仲がいいけれど、それを見て「ラブラブ」だとは思わない。

傍から見ている分にはどちらかというと「信頼」とか「相互理解」とか、なんなら「程よい距離感」とか、そういう表現がしっくり来る。
本人たちがどう思っているかは別としてね。

愛!恋!などと言うけれど、そこにあるのは赤の他人2人の間にある固有の人間関係でしかないと私は思っている。

「自分が赤だと思っている色」が他の人にも同じように見えているのか確かめる方法を、私たちは持っていない。それと同じで、恋愛だって人それぞれ少しずつ違う形をしているんじゃないだろうか。

自分以外の人が何を見ているのか知ることは出来ないし、もっと言えば自分だって、なんで目の前の相手にこんなに心を動かしているのか分からない。

そして、誰しも、名前がないものとか、正体の分からないものは怖い。

特定の相手に濃い目の感情を向けている自分、という不気味な状況をなんとか消化するラベルとしての「恋愛」と「彼氏」と「彼女」。
そして、その関係を目にした他人がそれについて言及するためにある形容詞「ラブラブ」。

こういうパッケージ化された恋愛みたいなものに、すごく抵抗を感じる自分がいる。

それは多分、ほかの誰でもない自分自身がこのラベリングに振り回された経験があるからだ。

10代を通してほぼずっとの期間。
私は誰とも恋愛関係を築けないことに焦り続けていた。
誰かの彼女にならなければ自分の価値がないと思い込んで、所作を変えたり、持ち物を変えたりした。
自分の洋服や生活、身体までもが日に日に値下がりして、がらくたになっていくような感覚。
それがゆるやかに続き、20代の入口もまだまだずっと遠い。
時折なんでもない日に学校から帰ると、気が狂うような焦燥感に襲われて床を転げまわることもあった。

そんな感覚はある日突然、一気に吹き飛ばされた。今のパートナーとのお付き合いが始まった日だった。

この人が好き、あの人に好かれたい。相手のすべてを肯定し、相手にも肯定してもらいたい。 
そんなことばかり考えていた時からは考えられないくらい、穏やかな気持ちで心身が満たされたのを覚えている。竜巻の突風から凪に投げ出されたみたいだった。

今まで周りをキョロキョロしながら手探りで自分の中に作った「恋愛」の虚像を抜けて、もう少し本質的な関係を見つけたんだと思った。し、今もそう思っている。

それまでは恋愛というテンプレートに身を添わせていくことが正解だと思っていたけれど、今のパートナーと付き合い始めた時、それは最早通用しなくなっていた。

というのも付き合うまでの間、私達は2年間ごく普通の友人として、なんなら最初の1年半くらいは関係の薄い顔見知りとして過ごしていた。

ただ部活が一緒だったので、私が気の合わない部長に裏でキレている虚栄心丸出しのダサいところや、誰も見てないだろうと思って鼻まで膨らまして大あくびをしているところなどを既に開示してしまっていた。
もうこれまで描いてきた、きらびやかな恋愛のテンプレには逆立ちをしても戻れない。それが功を奏したようだった。

こうして書いていても思うけれど、私が「恋愛」というものの唯一解だと思っていた何かには、相手の視点というものがことごとく欠如している。
あくまで一番は自分が愛されるか、そしてその結果幸せな生活というリターンを得られるか、という欲しがり精神全開だ。そりゃ上手く行かないだろ。

相手のことをすべて受け入れて肯定したいなんて思っていたけれど、生身の人間一人という膨大な情報量の塊を、自分ひとりで受け入れられるなんて今はとても思えない。親も祖父母もパートナーのことも、丸呑み出来るなんてほど私の器は大きくない。

そして、それで良いのだろうと思う。

このスタンスは、少なくとも「ラブラブ」とは少し違う、ような気がする。

どこまでも他人同士の私たちは、それぞれの考え方や心身の色かたちがすべて違っていて、
お互いのことが永遠にわからない。
わからないけれど、感じることはある。とても大事な部分に限って、じわ~と染み出している。

そうやって何かをほのかに感じながらも、もっとコアの、絶対に触れられない部分を知ろうと歩み寄る姿勢が、人によっては愛だったり、友情だったり、未練だったりと名前が変わるのだと思う。

私とパートナーの関係は、他の人が思う恋人としてのそれとはちょっと違うかもしれない。でも、あなたが一番好きな食べ物と一番好きな本を語るときと同じように、「好き」という気持ちには思ったよりたくさんのグラデーションがある。同じ「好き」でもその対象によって内訳はかなり違うんじゃないだろうか。

「らしく」なくても、確かに私はあの人のことが好きで、一緒に生きていきたいと思う。いつもしみじみと感じている。もし向こうもそうだったら嬉しい。

こういう要領で、きっと私たち2人だけでなくすべての人たちの生活や愛は、0か100かラブラブかでは済まないグラデーションで満ち満ちているんだと思う。

私とあの人が、私とあなたが、あなたと誰かがともに生きる時。
そのまだらな一帯を、ありのまま見つめていられる世界であってほしい。
うまく伝わるかわからないけれど、今の私は祈るような気持ちで、そう願っている。

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