靴底と指紋:ともに生きる

 近年稀に見る酷い靴擦れをした。よりによって両足の裏、一歩踏み出すごとに呻き声を出しながら家の中をそろりそろりと移動するしかなくて、なぜあの日あの靴を履いてしまったんだとしょんぼりする。新品でもなんでもない、昨年も一昨年も同じ時期によく履いていたお気に入りの靴だった。季節の変わり目を感じて久しぶりに靴箱からその靴を出してきた時の、私の浮かれた心ったら!あんなに馴染んでいた靴がたった一年でよそ行きの顔をする、どころか盛大に牙を剥いてきたことが悲しいやら可笑しいやら、少しでも何かに触れると痛くてたまらない両足を床から離して空中に浮かせながら(つまりとんでもなく間抜けな格好をしながら)、この文章を書いている。

 靴擦れを起こす前、担当の編集さんと「次は“ともに生きる”をテーマに文章を書こう」と決めた。ともに生きる。……靴擦れで両足を浮かせたままの私が書くには些か壮大過ぎないか、パソコンの前でどんな記事にしようか考えながら段々笑いが込み上げて来る。しかし、“ともに生きる”について書くためのヒントをくれたのは、やはり、この足の痛みだった。

 この強烈な痛み、確かに私の足で主張する この痛みそのもの・・・・・・・・を、どうやって説明したらいいだろう。一度でも靴擦れをしたことがある人ならばわかるのだろうか。あなたがわかってくれたということを、私はどうやって確かめればいい?あなたが“わかった”と思ったその痛みは、私のこの痛みと同じなのかしら。

 私は、私の この・・感覚をあなたの内側に直接届ける術を持たない。

S. Hermann / F. RichterによるPixabayからの画像

 実際に血が出ていなくたって、痛みは常に私の根本に深く深く根ざしている。私が愛してやまないものをあなたが嫌っていたと知った時の悲しさは果てない。しかしそれ以上に、ふたりで肩を並べて見た景色の美しさを語り合えてしまった時、背骨になり得る大切な感覚を共有できたように思えてしまった時、私は更に途方に暮れる。「私これ好き」と「そうかな僕は嫌い」で立ちすくみ、「綺麗だね」と「綺麗だね」でしゃがみこんでしまうのだ。

 私が綺麗だと思った何かをあなたも綺麗だと言うけれど、互いの この・・綺麗さを互いが感じたままに手渡したり受け取ったりすることはできないと知っている。私は私の身体を通してしかこの美しさを、愛しさを、悲しさを、腹立たしさを、和やかさを知らないし、あなたはあなたの身体を通してのみその美しさを、愛しさを、悲しさを、腹立たしさを、和やかさを抱いているでしょう。

 私が見ている景色とあなたが見ている景色が同じだなんて確かめることはできないというのに、それなのに、参ったことに、交わした言葉と触れた肩の骨から、気付くと心強い体温が編み上げられていることがある。あなたと私はどこまでも交わらない、頼れるものはなく、足元はおぼつかない……それでもあなたのいる世界で生きている私に、あなたの体温が伝わってくる。いつも揺らいでいる編み目、その編み目から飛び出すほつれを指でつつきながら、私は嬉しくて悲しくて泣く。

 “ともに生きる”の種は、編み目をつつくこの指先に宿っているのかもしれない。私とあなたの間にある不確かさと心もとなさを前にして立ち尽くしながら、それでも、今、あなたの体温を感じたと思う確かさがこの身にある。さっきまでその体温が確かなものではないことに絶望して泣いていた私が、同時に、その不確かさの中で体温を感じたことに生かされている。このことを手放さずにいたならば、私はいつだってあなたと出会って、言葉を交わして、その確かさと不確かさの間で花咲く瞬間を探し続けることができるのだろうと思う。そうでありたいと思う。

 あと数日でこの靴擦れの痛みは誰にも共有されることなく消えてゆく、そのさみしさと愛しさが確かにあったことをこの場所に記して、痛む足を少しずつ地面に下ろしてみることにした。


菅藤絢乃

kikusukuライターの菅藤絢乃です。日本と韓国のテレビドラマ、嵐、梅干しが好き。韓国語の独学勉強中です。考え事が多くなればなるほど、部屋が散らかってゆきます。立教大学大学院現代心理学研究科映像身体学専攻在学中。

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