接尾辞と手を繋ぐ日
昔から、「大人っぽいね」と言われることが多かった。「っぽい」のだから、その言葉を言われた私は大人ではなかった。大人みたいな子供は、つまるところ子供である。私は子供だった。
いつしか、「大人っぽいね」と言われなくなった。「しっかりしているね」と言われることはあっても、「大人っぽいね」とは言われなくなった。「っぽい」が取れた私はもう、大人だった。
子供の頃、「大人っぽい」という言葉は私の拠り所であり、枷だった。言われた瞬間に目の前で線が引かれたような感覚を何度も味わったし、それと同じくらい、わかりやすく周囲から区別される特徴として受け入れてもいた。背が高い方だった私の目線の高さは同級生の子たちのそれとは物理的にズレていて、些細に思えることかもしれないけれど、私にとってそれはとてもとても重要なことだった。頭がひとつ出たところから会話をしていると自分の脳みその端っこが徐々に冷静になっていくのがはっきりと分かる、熱心に話し込む同級生たちのつむじを眺めながら、私はいつも一歩引いていた。その場が楽しいことには変わりなくても、身体全体で会話に浸かる事ができないこの感覚というのは中々に重かったように思う。……しかし、大人っぽくあろうとして大人っぽかったわけではなかったので、「大人っぽい」私は苦しかった反面、しっくりもきていたのだ。求められる役割を演じていた結果の「大人っぽい」ではなく、自分なりに生きていた結果の「大人っぽい」。私は言葉に閉じ込められながら安定していたし、それでもやっぱり、何度も、さみしかった。
kikusukuで書いた一番最初の記事(「異国情緒、私の風景」)に、「自己紹介が苦手だ」と書いた。私をつくる要素をいくら語っても、あなたに私のことを話せた気がしない。……「っぽい」という接尾辞が外れた私は、ずっと、「ただの大人」になった自分の複雑で大切な内面をどう語ればよいのか戸惑っているのかもしれない。
念のために言っておくと、子供の時だって何も「私は大人っぽい人ですどうぞよろしく」と自己紹介してきたわけではない。しかし、今の私の周りには大人がいっぱいいて、実際のところしっくり来ているかどうかは別として私も大人で、その中ではもう「大人っぽい」という言葉は特段私を形容する言葉ではなくなっていた訳だ。だってみんな大人だもん。そんな中で、私は何者だ?と戸惑う。”私が思う私”と同じように”誰かから見た私”は私を形づくる大事な一部分だったようで、その中のひとつが揺らいだものだから、私は、若干、彷徨っているわけです!(大人っぽい大人、というのもまたあるんじゃないかとも思っているけれど、とりあえずそれはまた別の機会に考えるとして。)
ただ、「大人っぽい子供」だった私は、10代の半分を学校の外で過ごしながら、「はやく大人になりたい」と思っていた。20歳になった時は本当に嬉しかった。たかが数字、されど数字。それから20代の誕生日を4回迎えてきたけれど、その度に、新鮮に、私は私にしっくりくる。息がしやすい。……私は今スタートラインにいるのかもしれない。「大人っぽい」という言葉で括ることのできなくなった私はこれからどんな風に生きようか、戸惑いの先で、まだ見ぬ私が今の私を見つめて笑っているといいなと思う。もしかしたらその手の中には、また新たに揺らいだ接尾辞があったりして。
kikusukuライターの菅藤絢乃です。日本と韓国のテレビドラマ、嵐、梅干しが好き。韓国語の独学勉強中です。考え事が多くなればなるほど、部屋が散らかってゆきます。立教大学大学院現代心理学研究科映像身体学専攻在学中。